Essay2006 A Kajii

2006年の独り言

by 梶井厚志

2006年12月某日

シンガポールでドリアンを食べた。 つねづね食べたいと思っていながら果たせなかったが、今回シンガポールでついに実現したのである。

ドリアンはラグビーボールをやや小さくしたような形状をした果物で、 表皮はごつごつとしたトゲで覆われている。 ドリアンは、その味よりもにおいのほうが有名な果物といってよかろう。 一種独特のにおいで、しかも強烈である。 ドリアンを売っているところが近くにあるとあるとすぐにわかる。 シンガポールのバスや地下鉄のなかには、 車内でしてはいけないことのリストがはってある。 たとえば、飲み物を飲んではいけないということであろう、 ビンの形状に大きなバッテンがかかれたイラストがある。 そういうイラストが4つほどあるが、そのひとつはドリアンに 大きなバッテンがかかれたイラストである。 ホテルにも、ドリアンお断りのポスターがはってあったりする。

はじめはスーパーで、黄色がかった果肉がいくつかはいった小さなパックになったものを買ってみた。 幸いにも、宿泊者の出入りにおおらかな大学の施設に泊まっていたので、 ドリアン持込にたいした苦労はいらなかった。 満を持して食べてみると、 くさいといえばくさいが、私にはむしろなんとなく甘い発酵香のようにおもわれた。 しかし、においよりも、なんだかぱさぱさした感じで、 これが果物の王様とはとても思えなかった。

やはり、このようにむいてしまったものでは、乾燥してダメなのかもしれぬと、 ドリアンをうずたかく積んだドリアン売りの店にいき、丸ごと買ってみることにした。 ドリアンひとつの体積は、小玉スイカ程度はあるから、 一人ではとても食べきれないと心配したので、なるべく小さいものを買おうとしたが、 交渉の結果いきついたドリアンは、2キログラムあった。

トゲトゲを自分で処理できる感じはしなかったから、店のオヤジに 割ってくれとたのむと、包丁を器用に使って割っていく。 2つに割れたものを見てびっくり。 みかんの一粒一粒をわける皮の部分がたっぷりと太ったような白っぽい部分がかなりあり、 黄色い果肉の部分はおもったよりも大分小さい。 さて、黄色い部分を食べようとすると、中には巨大な種子がある。 大きさは鶏のたまごを一回り大きくしたほど。たべられる 黄色い部分は、このたまご状の種にまきついている、という印象である。 要するに、一人ではもてあます巨大なおおきさと思われた私のドリアンも、 実際に食べられる部分は心配するほど大きくはなかったのである。

そのとき、こんなことで驚かぬよう、シンガポールに行く前に、 中公新書から出たドリアンの本で勉強しておくべきであったと思った。 この本は、遅ればせながら帰国してから読んだ。

さて、こちらのドリアンは、むしろ甘い香りの方が強く、 発酵したような香りはすくない。全然くさくはないのである。 また、前のに比べると水分も多めで、 これならばむしゃむしゃと食べる意欲がわいた。食べてみると、かなり甘い。甘みの強さは 干し柿を連想させた。これはうまい食べ物である。

ところが甘みが強いために、半分ほど平らげたときには、 次に手ががでなくなった。味に飽きてしまったのである。そこで、とげトゲの皮から黄色い部分をすべて取り出して ビニール袋にいれ、宿舎まで持って帰ることにした。 においがしなかったので、気楽に考えていたのである。ところがバスに乗ったとき、 突然ドリアンの香りがし、そして私は自分がやってはいけないことリストに のっている大罪を犯していることに気づいた。

シンガポールは、ごみを道に捨てると鞭打ちの刑にあうといううわさのある国である。 むき出しのドリアンをもってバスに乗るなど言語道断、つかまったら鼻くらいはもがれかねない。 おそらく私の顔は蒼白になっていたと思う。

そこで私は速やかに降車ボタンをおし、次の停留所にて粛々とバスからおりた。 木陰で残りのドリアンを食べきり、難を逃れたのであった。

さて、これが果物の王様か。確かに予想よりもうまかった。しかし、これだけの値段を出すなら ほかによほどうまいものはありそうだ。


2006年11月某日

初めてソウルに行った。

ソウルの中心街から少し離れた観光客の寄り付かないエリアに行くと、 食堂のメニューはハングルで書かれたものだけで、店の人も韓国語しか話さない。 したがってハングルを読めない人が、ソウルの町食堂にて食べ物を注文するのはなかなか勇気がいることである。

私はハングルがよめない。ソウルでの滞在先は観光地からは離れたところだったので、 メニューはすべてハングルのみである。だからメニューを見てもさっぱりわからない。 よって、まずは値段から判断する。まあ、この値段なら何かどんぶりとか麺類であろうと予想して、 最後は背筋を伸ばしてえいやと注文する。 すると、たしかにこのくらいの値段かなと思われるどんぶりや麺が出てくる。

ここまではよいのだが、たいていはそれらは辛い料理である。いかにも辛そうな、赤いたれがかかっているから、 見るだけでも辛い。 私は辛い料理が好きではあるが、体のほうはあまり辛味を受け付けないらしく、 この手の料理を食べると全身一杯に汗をかく。心臓の鼓動も早くなるような気がするから、これは命がけの作業である。 とはいえ、辛い中にもうまみありで、一度食べるとなかなか忘れがたい味である。また食べたい。

何を頼んでも付けあわせとしてたくさん出てくるキムチの類が私の好物だといってよいだろう。 特に、名前は知らないが、わたり蟹を唐辛子ミソでつけこんだものがうまい。 小ぶりに断ち切られたカニを甲羅ごと口にほうりこみ、歯で殻を押して身を押し出す。 これも辛味があるが、唐辛子の風味がカニの風味とよくあっているとおもう。

さて、真偽のほどは定かではないが、ソウルでこんな話を聞いた。 唐辛子料理は古くからあったわけではない。 朝鮮半島で唐辛子をつかった料理が盛んに作られるようになったのは、 せいぜいこの500年ほどの間である。しかも、唐辛子を持ち込んだのは日本人である。 日本人に唐辛子をもたらしたのはポルトガル人であろうが、 日本人はこれをせいぜい薬味として少々つかうくらいであったので、当時の人の口にあったとは言いがたい。 むしろ、口から火が出るような危険な食べ物とおもわれた。 そのため、邪悪な日本人はこれをつかっで朝鮮人を痛めつけてやろうと考えて、 唐辛子を朝鮮に持ち込んだ。ところが、朝鮮の人々の食生活には唐辛子が大変よくあい、 しかも健康にもよかったので一気にひろまったのだそうだ。


2006年10月某日

ベニスのリアルト橋付近に魚市場がある. 市場といっても,ここは小売専門の業者が店をだしている場所で,卸売り市場は他の場所にあるそうだ. 朝8時にはたくさん魚が並んでいる。業者1つが陳列するスペースは、京都のデパートの魚売り場より少し大きいくらいだろうか。 業者は10ほどでてきているから、ずらりと並んだ魚のすがたはなかなか壮観である。 それがお昼過ぎにはほとんどなくなっている。 それだけ町の人がここにやってきて買い物をするわけだ。 朝10時ころにはこのあたりは人でごった返しているが、観光都市ベニスのことだから、その半分以上は 魚を買わずに写真ばかり撮っている観光客である。

ベニスの人たちはイカが好きなのか、さまざまな形状のイカが売られている。 出てくるイカは季節によって異なるらしい。 秋口にみるのは、小型のイカで、これがたいそううまい。日本では見たことがない形だ。 丸っこい形をしていて足は短い。 影絵で見ればタコのように見えるかもしれないが、肌はつるりとして間違いなくイカである。 大きいものでもCDケースの上にすっかり乗ってしまう大きさだ。 小さいものほど、味がよいらしい。

このイカを、焼いたのがうまい。肉は柔らかく、風味がある。 食べ物屋で出されるものは、まちがってもイカくさくない。 焼きたてがうまいが、焼いたものにオリーブオイルと香草をまぶし、 レモンをかけてしばらく置いたものも、また妙味がある。 夕食のオードブル盛り合わせに欠かせない。白ワインによく合う。

また、こいつの墨がまたうまい。ベニスの名物料理に、イカをイカ墨で煮たものがある。 この料理に使われるイカの種類はさまざまであるようだが、 この小型イカで作ったものが独特の甘みがあってよい。 ベニスの人は、これにポレンタというとうもろこしで作ったパン状の物を 合わせてたべるのを定型としている。

ところが、私はこのポレンタはあまり好きになれない。 パスタをあわせるか、米の方がよいと思うのだが、そんなことを現地でいうわけにもいかない。 もっとも、イカとイカ墨で作ったリゾットというのもベニスの名物料理であるから、 米が合うということもちゃんとわかっているのである。


2006年9月某日

そろそろ秋さばの季節である。

農林水産統計によれば、2005年にわが国の漁港での水揚げ量が最大だったのは、さば類である。 乱獲などで日本近海におけるさば類資源は減少して1990年代の漁獲量は少なくなったが、それでもさば類の 水揚げ量は大きい。2005年は久しぶりに豊漁で、価格も2004年よりも4割ほど安かったようである。

かつて、京都に入ってくるさばは、若狭湾でとれたものであったようだ。冷蔵庫もトラックもなかった時代である。 小浜あたりであがったさばに塩をまぶして桶にいれ、天秤棒でかついで京都の出町柳まできたのである。 担がれたさばが通った路が「さば街道」とよばれる路である。出町柳商店街の端には、かつての「さば街道」 基点をしめす道しるべがある。さば街道の歴史は、平安京の時代までさかのぼることができるそうだ。

さば街道といっても、より日持ちのする、輸送にべんりな魚介類もこの街道をとおって京都に運ばれた。 また、小浜と京都は直線距離だと50キロほどであるが、途中は山であるから、腐りやすい魚を抱えて小走りに移動する距離とそれに費やすエネルギーは 膨大なものであったであろう。にもかかわらず、さば街道という名前がついたのは、 腐りやすいさばがあえて大量に運ばれたからであろう。 それだけのことをして京都まで運ぶ価値があったのだ。 ということは、 当時小浜あたりと京都では小売価格に大きな開きがあったと推測されるが、 農林水産省のページを精査してもこの種の統計は発見できなかった。

京都についたころ、さばには塩が回って、ちょうどよい味の塩さばになったという。 だから、京都でさばといえば、本来はこの「塩さば」をさす。 この若狭産の塩さばをつかって作る寿司が「さば寿司」である。 出町商店街にさば寿司の店があり、いつか一本買って帰ろうと思うが、 一本3000-4000円はする高級品なので、いつも二の足を踏む。 この店に限らず、さば寿司はどこに行っても高い。 デパチカでは、もうすこしお手ごろ価格のさば寿司もうられているが、 これは原材料がノルウエー産の輸入品であるから本物のさば寿司ではないとのこと。 おてごろな偽さば寿司は何度か食べたが、それでもなかなかうまいものである。 さばが肉厚のものの方がうまいと思うが、米とのバランスもあろう。 しかし、なにしろ本物を食べたことがないので、味についてとやかくはいえない。

しかし、どうしてこんなに高いのであろう。 若狭産のさばは近年貴重品となっているようで、 インターネットで検索すると「若狭産」をうたう 「塩さば」は一本500-1000円弱で販売されているようだ。 ノルウエー産は、一本100-200円、また国内主産地である常磐、三陸や北海道産のものだと高くても 500円くらいで取引されているようだが、若狭産は突出して高い。 しかし、さば寿司の価格差が材料のさばの値段だけで決まると仮定すれば、 さば寿司の価格差はすなわち使われている塩さばの価格の差になるはずだから、 上の数字から判断するに いくら若狭産の本物さば寿司とはいえ、 ほかのさば寿司とせいぜい500円から1000円くらいの差になるはずである。 しかし、小売現場での価格差はそれをはるかに上回る。 このあたりの価格のからくりは、よくわからない。


2006年8月某日

札幌に行った。さて何をたべるか。私はラム肉が好きなので、ジンギスカンははずせないところであるから、あとで食いはぐれることのないよう、到着初日に抑えることにした。 札幌中心地にある「ロビンソン」にはいっている本屋の中公新書前でHとSと待ち合わせて、 かつてMくんと行き粘りすぎてあやうく飛行機に乗り損ねかけた 店に食べに行くことにした。

あたかも行きつけのような表現だが、正確に表現すると、 どこの店だか思い出せなかったので、Mくんに問い合わせて教えてもらったのである。 さらに付け加えると、その後この店をHとSに提案したら、なんとSも行ったことがあり、 それだけでなく気に入ったかれは2度も行っていた。 かく言う私も2度行っていたので、これが3度目である。 そんなわけで行き先については即合意が成立したのであった。

最近は京都あたりでもたれに漬け込んだラム肉が手に入るが、 やはり競争の激しい札幌で食べるにこしたことはない。 この店だと焼いてから肉にたれをつける形式である。 このほうがたれが焦げず、また肉の風味も味わえるのでよい。 肉をたれにあらかじめ漬け込んでおくというのは、肉自体の香りが芳しくないことの裏返しかもしれない。 もっとも、ラムの香りが苦手という人もいるので、 よい肉であってもたれに漬け込む方式で勝負している店もあるのだろう。

さて 付け合せの野菜はもやしとかぼちゃで、こちらのほうは言えば無料でおかわりをいくらでももってくる。 もやしもよいが、この場合はかぼちゃの方が私は好きだ。 適度にこげて、肉の脂とあわさったところをたれにつけると良い味である。 さらに言えば、キャベツも悪くないと思うが、この店ではキャベツは控えめであった。

翌日は大通り公園のビアガーデンに出かけた。札幌では珍しい真夏日だったので、 ビール日和であった。実際、広い大通り公園がほとんど埋め尽くされるほどの客の入りで、 総勢10名ほどの場所を確保するのに苦労した。そこかしこから暑い暑いという声が聞かれたが、京都人には 冷房なしで涼しく感じられる快適な夜だった。 食べ物はたいしたことはなかったが、もとよりこういうところで食べ物に期待してはならない。 日中の暑さと、日が落ちたあとの涼しさのコントラストを楽しみながらビールをのむ。 これがすべてである。

その次の日は、炉辺焼き風ちいさな飲み屋にHとともにでかけた。 生ビール一杯無料のクーポンを見つけたからである。 いってみると、こじんまりとしてなかなかよい雰囲気であった。 一階はカウンター席だけで6人ほど座れる。 おそらく2階には1グループ用の座敷があるのだろう。 カウンターの上には水槽が3つあった。 バター焼きホタテを注文すると、その水槽の一つからホタテを取り上げて焼いてくれた。 さんまの刺身は非常に美味であった。もっとも、北海道ではこのくらいアタリマエなのかもしれない。 かに味噌を甲羅に詰めたものもうまかった。日本酒によく合う。

子供のころにもカニを食べたはずだが、不思議にあまり記憶が残っていない。 カニの味は子供向きではないのではないかと思う。 カニの味噌など、気持ち悪くて食べれなかったと思う。 味覚が変わったのは、酒を飲み始めてからだろう。 そういえば、それまでどちらかといえば苦手だった 牡蠣が好きになったのも、酒を飲み始めてからであったと思うが、 いまだに牡蠣を生でたべるというのは、牡蠣をうまく食べる方法ではないと思う。 もっとも、食膳に出てくればぺろりと食べてしまうのであるが。

牡蠣の場合は、殻ごと軽く蒸したものがよいと思う。 フライも、かるく揚げたものを、その揚げたてを食べるのもとてもよい。 ようするに、少し加熱して、しかし火の通しすぎでない状態がうまいのではないかと思う。

さて、われわれがカニの甲羅をつつき始めたこのあたりから、もう一つの水槽に入っていた毛ガニが暴れ始めた。 水槽のふちに足ひっかけ、必死に身体を持ち上げて水槽から脱出しようとしている。 出かかると、店のものに捕まえられて水槽に戻されるが、すぐにまた逃げようともがき始める。 かに味噌を食べながら、目の前でもがくカニを眺めるのはいかにも悪趣味である。 だから、このカニをゆでてもらって食った。


2006年7月某日

京都の夏の魚といえば「はも」である。この時期になると,どの魚売り場でも,主役扱いは「はも」だといってよいだろう。

「はも」はうなぎの親戚で,海底に住み海老かに貝など、うまそうなものは何でも食べる。 細長い面構えが立派で,いかにも獰猛そうな顔つきをしている。 実際、「はも」は非常に強い魚で、夏に京都まで生で運べるまれな魚だったために、 京都で「はも」が珍重されて、はも料理が発達したという。

はもには小骨が多く、刺身には向かない。開いたあと、こまかく骨切りをして食用にする。 骨切りをしたハモを熱湯に通して反り返らせ、冷やして梅肉をあえて食べるのが、代表的な方法らしいが、 見栄えはよいがこれだとうまくないようだ。せっかくのはものうまみを、わざわざのがしているように思う。 正確には、 すでに湯引きなっているものをスーパーマーケットで買ってきても、うまくないというべきだろうか。 本物の湯引きはうまいのかもしれない。

はもの味を楽しむには、焼くのが一番よいと思う。 焼き過ぎないようにさっと焼いて塩を振ったものがうまい。もともとがうまい魚なのである。 しょうゆでもよいし、梅肉をあえてもよい。あっさり食べたいのなら、焼いたはもを茶漬けにするのがよいとおもう。 どんなに下手なはもを買ってきても、それを焼くならば、湯引きになったものよりましである。 なべやしゃぶしゃぶもよいが、この場合は、はも自体ではなく、はもから出る味で他のものをうまく食うほうに主眼があるといえるだろう。

思うに、湯引きをが好ましいのは、夏の暑いとき、はもの丹精な脂身であっても口にあわない、 どうしても脂を抜いたさらっとしたものを食べたいという時に限るだろう。 焼いたはもを食いたいと思うのは、暑ければ冷房をしてでも 物をうまく食うという現代人ならではの感覚かもしれない。

あと、てんぷらも悪くなかったように思う。思う、というのはあまり食べた記憶がないからである。 うなぎのてんぷらがあまり一般的でないことからもわかるように、 元来、脂身がおおい魚はてんぷらには向かないはずだが、 アナゴのてんぷらは悪くない。 はもの食感と脂身も、てんぷらにあっているような気がする。


2006年6月某日

最近は、ノンアルコール・ビールをよく飲む。 アルコールの量を減らそうとして飲み始めたが、 飲みなれてくるとそれなりのうまさがある。 ドイツ製のものを気に入って飲んでいる。 日本のメーカーのノンアルコール・ビールは、 発泡酒の出来損ないのような味がして、ちっともうまくない。 税金対策のため知恵を振り絞り、偉大な成果を挙げてきた日本メーカーが、 なにゆえノンアルコール・ビールの 質を高められないのかは、私にとってまったく謎である。

1989年だからもう20年近くも前になる。 当時アメリカで大学院生をしていた私は、西ドイツにあったボン大学の 研究集会に参加する機会を得た。夏の暑いころのことである。

指定された宿舎に着くと、そこに一足先に きていた古くからの友人の日本人学生で、 これもアメリカ留学中だったO氏が、私を見るなりドイツのビールは本当にうまいぞと 力説した。 早速飲んでみろと、彼の部屋にあったものをぐいと飲むと、 確かにうまい。 しかし、普通のビールからはすこし飲んだあとの感じがちがう。 そこでO氏に、ずいぶん軽い感じであると感想を述べると、 O氏はドイツのビールは軽いのにもかかわらず香りと味があってうまいのだという。 その場で、2本ほど飲んだらずいぶん気持ちよくなった。時差ぼけの影響もあって、それから部屋に引き上げてすぐに寝た。

しかしその翌日、バーでビールを飲んでみると、 これはいわゆるビールの味わいであった。そこで、 ドイツのビールはすべて軽いという説には賛成しがたいと O氏に反論したところ、 理知的な彼は それはビールの種類が違うためであろうと分析した。そして彼は、じぶが貯蔵するビールのラベルを 見て 原材料などを調べていたら、そこに「アルコール無し」とドイツ語でかかれてあるのを発見した。 確かに、種類が違ったわけである。

私も彼も留学中はほとんど酒を飲んでいなかったから、アルコールに弱くなっていたのであろう。 ノン・アルコールとはいえ、アルコール分はわずかに入っているので、 それで十分酔った気になって満足できたようだ。 今からは到底考えられないことではあるが。


2006年5月某日

この時期は,竹の子が楽しみである。竹の子は京都の名物といってもよいのであろう。洛西のほうでとれる竹の子は珍重されるようだ。

私は食べて産地を当てられるような竹の子グルメではないが、うまい竹の子はやはり食べたい。物の本によると、 竹の子は掘り出されるとすぐにえぐみが出はじめるので、産地で掘り出したらすぐに 煮てしまうのがよいそうだ。したがって、こだわって生の竹の子を買ってきても 返ってがっかりすることになる。存外、水煮されてパックされている竹の子の方がうまいのである。

竹の子は煮物によく使われるが、竹の子は香りと食感を味わうものであるから、 くたくた煮てしまったのでは面白くない。ご飯と炊き込むのもうまいが、 炊けてから混ぜるものであろう。

炭焼きにしたものがうまいと思う。長岡天神の露店で炭焼きの竹の子を食べたところ、 非常にうまかった。もっとも、これは周囲の雰囲気がそうさせたのかもしれない。 あと、油でさっと素揚げにしたものもうまい。 衣を着けててんぷらにしてもよいが、そうすると衣があることでかえって食感が失れるような気がする。


2006年4月某日

何事にも、適度なゆとりが必要である。

極度に張り詰めた運行ダイヤが原因の一つとなった尼崎での大事故の反省から、 JR西日本のダイヤは3月半ばから「ゆとりダイヤ」になった。 ゆとりダイヤでは、京都大阪間を走る新快速で、以前よりも1−2分ほど所要時間が長くなった。 割合にすれば0.5%ほどの時間が余計にかかる計算である。

つい先日、私はこのゆとりダイヤになってから初めて新快速にのった。 たまたま乗った列車がそうだったのかもしれないのだが、 前とは比較にならないほどゆれが少なく、 また以前はとても気になっていた「ゴリゴリ」という音がしなくなって、 ずいぶんと快適さが増した。 0.5%の遅れと快適さ。私のような生活をしている人間には、 快適さのほうがありがたいが、この0.5%のほうが貴重だと感じる人もいるに違いない。

ゆとりといえば、こんなことがあった。 筑波大で後期入試(小論文)を担当したとき、 受験生はぜんぜん「書けない」のだなあ、と感嘆したものである。 論理構造どころか、「てにおは」が怪しい答案が非常に多かったので、 自分の感覚では、もっと出来てもいいのではないかと思った。もっとも、その時期の受験生は、 ゆとり教育がその極限に達したときよりも前の指導要領で育ってきた学生のはずであるが。

某大学で教鞭をとるK氏は、彼のクラスの読書課題としてに、 私の『戦略的思考の技術』を使ってくれた。ありがたいことである。 その彼によれば、読書感想文を書かせたところ、 本にある文章をそのままなぞってそれを感想としたものが ほとんどだったそうである。 曰く、感想文というよりは「写経に近い。」

とはいえ、 これがゆとり教育がもたらした学力低下の結果なのか、 それとも18歳の能力とは昔からその程度のものなのか、私にはよくわからない。 上の例にしても、それがゆとり教育の弊害をあらわす客観的なデータかといわれると、 答えは否であろう。 このあたり、どう判断すべきなのかなかなか難しいものである。

そもそも、教育の効果は一朝一夕にはわからなのだから、この種の話は、 データに基づき追跡調査をし、それを科学的に比較検証した分析から判断することが必要なはずではないだろうか。 にもかかわらず、 ゆとりが適当なのかどうか、感覚や一時的なデータ(しかもかなり大雑把な)で でしか議論されていない現状は、非常に奇妙である。 もっとも、そうなる原因は明らかではある。それは、 センター試験や各種の学力試験(そして、その後どのような職を得たかなど)の 体系的なデータを整理したものが存在しない、あるいはどこかに存在しても それが公開されていないために詳しく分析されていないことである。

一国の将来をになう大事であるにもかかわらず、 その議論の土台となる分析は驚くほど貧弱なのである。


2006年3月某日

オリンピックが終わった。時間帯の関係もあろうが、今回はほとんど中継を見なかった。 女子フィギュアの金メダルにかんしては、優勝インタビューを生放送で見たが、 これは朝7時のニュースを見ようとNHKをつけたら、 ニュースではなくスケート会場がうつっていたので、たまたまみてしまったというのが正しい。

札幌オリンピックの時、私は札幌に住んでいた。小学校は、オリンピック休みと称して完全に休みになっていたので、 私はテレビにかじりついていたと思う。休みということをよいことに、オリンピック以外の番組もたっぷりみていたと思うが。 私は、当時札幌に住んでいたどの少年ともかわりなく、 大きくなったらカサヤになって、ジャンプをしたいと思ったものだ。

その後も、冬季オリンピックには標準以上の関心があるとおもっていたのだが、 今回はまったくダメだった。年齢のせいかもしれないが、私としては最近のオリンピックの試合には、 私が子供のころのオリンピックがもっていた、あのわくわくするような感覚がなくなってきたという説を信じたい。

世界中からスポーツの達人たちが集まる場所という意味では、今も昔も変わらないが、 私が覚えているオリンピックとは、外国を見る貴重な場だったと思う。 テレビで見る世界一流の選手たちは、それこそ目を見張るようなスゴイ人たちに見えた。 ところが、外国の情報もたやすく入る今頃は、世界の人が一つのスポーツで競うという場に 普段からさらされているため、いまさらイタリアの選手が突然メダルを取ったり、 アメリカの選手が不要なジャンプをしているのを見ても、感動という感動を得ることが出来ない。

そのようなところが、理由なのではないだろうか。


2006年2月某日

節分は京都の一大イベントである。2月3日は市内各所で催し物がある(註)。今年は、 大学脇の吉田神社で2月2日から行われる 節分祭だけでなく、壬生寺にも出かけてみた。

壬生狂言で有名な壬生寺。 この壬生狂言とは、一般大衆にたいしてわかりやすく仏の教えを説くことが目的として、 鎌倉時代に生れた無言劇である。 「かんかん」とかねを鳴らしてリズムをとり、 それにあわせて笛太鼓でごく単純なお囃子をつける。 演者は仮面をつけるから、このあたりは能のようであるが、 能に比べれば動きははるかに活発である。 いわばパントマイムである。複雑な言葉の表現なしに、 ありがたい仏の教えを伝えようとしたのであろう。

壬生狂言は春と秋の2回の公演のほか、節分にも演じられる。壬生狂言には30の演目があるそうだが、 節分に演じられるのは「節分」という狂言だけで、これが繰り返し演じられる。

まず、後家さんが出てくる。もっとも無言劇であるから、 本人が後家だと言うわけではなくて、私は別途調べてわかったのである。 すると、ひょっとこの面をかぶった子供が出てくる。 後家さんと何かやり取りをしているのだが、 一体どういう意味があるのかこいつの役割は最後までよくわからなかった。 ひょっとこが退場したあとは、 鬼が出てくる。鬼といっても、般若のような面をつけている。 こいつは打ち出の小槌をもっていて、 小槌をふって着物を出すと、それを着て人間に変装し、 後家に取り入ろうとする。 この後家さんは、 打ち出の小槌から次々と取り出される着物にうっとりとして、酒をだして 鬼を歓待するのである。 もっとも、後家さんはこの酒を自分で調達はせずに、 打ち出の小槌から出して鬼にすすめるのであるから、 なかなかちゃっかりしている。

さて、この鬼は酒を少し飲むと 調子が出てきて、一瞬陽気に振舞ったかと思えば、 すぐに倒れて寝込んでしまう。 鬼は下戸なのだ。 それでもなんとか鬼の世話を焼こうとする後家さんは、 布団で寝かそうとしたのか、 着物を脱がしにかかる。 あるいはなにか他のことを考えていたのかもしれない。

とにかく、着物を取ってみると立派な鬼である。 後家さんがあわてていると、 鬼が目を覚まし襲いかかってくる。 そこで後家さんは、 豆を取り出して鬼に向かって投げつける。 舞台の上で、本当に豆をまくのである。 すると、鬼は豆の法力に抵抗できず、 ほうほうのていで逃げ出す。

ざっと、こんな劇である。上演時間は40分ほどであったろうか。 とにかく寒い夜であった。舞台は屋外なので、 とても寒い。 演じる人々はもっと寒いのだろうと思うが、 だからといって自分が感じる寒さが減るわけでもない。 ともかく、家に帰る前に温まる必要があると、 一緒に出かけた同僚2人と、 そのあと四条大宮付近で焼肉を食べた。 炭火で焼くタイプであるが、 はじめに墨が真っ赤におきた火鉢をテーブルに もってきたので、これに手をかざして暖を取り、 やっと精気を吹き返した。

そしてふと思った。打ち出の小槌から何でも出してくれるのであれば、 何ゆえ追い払う必要があったのだろうか。 鬼と共存していたほうが、後家さんも何かと便利ではなかっただろうか。

最近は、このような考え方を拝金主義というのであろう。 ともかく、気になって調べてみたら、 鬼が逃げ出した後、打ち出の小槌からでてきた着物はすべて消えうせ、 後家さんはここにいたって自分が危険な誘惑に たぶらかされそうになっていたことを思い知るというのが、 最後の場面だとのこと。

なんと、肝心の場面を見逃していたようだ。

(註)私の研究室では、このような催し物があった。そのときの秘蔵 映像1映像2。 この行為の意味が理解できない人はここここを読むこと。

2006年1月某日

こんな夢を見た。

すっかり雪に覆われた寺の伽藍を左手に見ながら歩いていく。 見慣れた風景ではあるが、雪がくわわりいつになく凛として見えるようだ。 ところが、いつもは聞こえてくるお経が、今日は聞こえない。不審におもって中を覗き込むと、 坊主が集まって大黒柱を太い鉄線で補強していた。

まさか室町時代に、 設計図の偽装をしたものはいるまいから、 これは過剰反応というべきであろう。 そもそも500年の風雪を耐え抜いた建物だから、 その事実自体が、構造が十分しっかりしているということの 裏づけではなかろうかと考えていると、 それを見透かしたように、一人の若い坊主がやってきて、 過去に大丈夫だったからといって、 これからも大丈夫だという理論的な根拠はどこにあるのですかという。

たしかに弱い建物でも、運がよければ大過なく年月を経ることが出来るでしょう。 しかし、運というのは長い間は続かないものですよ。 だから、何年ものあいだには、いつかは真価を問われるときが来る。 弱い建物だったら、そんなときに壊れてしまうはずです。 しっかりした強い建物だからこそ、長い年月を耐えて 現代までのこっているはずではないですか。 当時には建築理論はなかったかもしれないけど、これまで残っているということが、構造が 理論的に優れているということではないでしょうか。 たとえば、 昔からのことわざなど、人が面白いと思って使ってきたものには、何がしかの真理があるものだから、 現代まで残っているということ自体が、それが面白いものだという証拠と考えても、よいと思いますがね。

坊主は納得してくれたが、話している私自身は、 果たして600年の月日が、十分長い時間なのかどうかは わからないと思い始め、かえってわからなくなってしまった。 それに、何億年を経過したようなぼろぼろの建物の方が、よいということにはならないか。 いったい、自分がこれまでよいと思っていたことの根拠は、いったいどこにあるのだろう。

つらつら悩み始めたら、眼が覚めた。