2003年の独り言

by 梶井厚志

2003年12月某日

一橋の集中講義に,肩が痛くなって弱った.右肩の首筋に近いあたりが刺し込むように痛む. すわ、四十肩かと思ったら,講義終了後一週間でかなり回復した.どうやら,授業中に力をこめて 板書しすぎたのがいけなかったらしい.

チョークで書く文字は, 力を込めて書かないと,小さく見えにくくなるように私には思えるから,つい力が入る.ただでさえ,授業中に 知らず知らずのうちに妙なジェスチャーを交えて話をするため、余分なエネルギーをたっぷり使う私であるから, チョークをバリバリやることは体への負担が相当に大きいに違いない.肩痛は熱血教員の勲章といえるであろう.

しかし冷静に分析すると,本当の原因は,黒板にチョークで板書するときに、普段使わない筋肉を相当に使った ことにあるようだ. 運動不足のおじさんが、ソフトボールを2時間やっただけで転倒すること数回, さらに翌日体中が痛くなるのと同じ原理かと想像される.

こんなことを書くといったいお前は普段何をしているのかとお叱りを受けそうだから少し解説しておく. 近年の教育現場では,ホワイトボードにペンで書くのが標準になりつつある.これに慣れ親しんでいると, 「チョーク用」筋肉が衰えるのである.やってみればわかるが,チョークで書くのとペンで書くのでは, 要求される筋肉の使い方や力の量がまったく違うのである.

さらに弁解すれば,私は筑波大学時代まで約10年間の教員生活の間に, 相当にチョーク筋肉を鍛え抜いていたのである. ところが,大阪に移って授業担当が減り,その後は授業をするにしてもホワイトボードを使うことのほうが多くなった現在, 過去に培われた筋肉が劣化してしまったのだ.にもかかわらず、当時にした チョーク板書の力感覚は体に染み付いているので,チョークを握るとそのときのイメージだけが よみがえって,当時の筋肉があればこそ支えることの出来た無理な動きをしてしまうに違いない.

やりなれない運動ですっかり痛んでしまうのも,昔自分がもっと軽やかに動けた時代のイメージで 今の体を動かそうとすることにも原因があるのだ.


2003年12月某日

なぜか無性に漱石の小説を読みたくなった。

中学や高校で無理やり読まされていたころの漱石はちっともよいと思わなかった。受験勉強をしたから、 タイトルは覚えたが。

ところが、留学中にはずいぶん熱心に読んだ。 HarvardにはYenching図書館という アジア研究の図書館があって、そこには著名な小説家の全集がすべて収蔵されていた。 日本語に飢えていたときだったので,漱石の全集を初めからむさぼるように読んだ. 漱石に限らず、それまで受験勉強でタイトルしか記憶していなかった谷崎潤一郎も片端から読んだ。 物語は、吸い込まれるように、体に入った。当時の読書が現在の私の書き方のスタイルに与えた影響は計り知れない。

手始めに読み始めた「坊ちゃん」は、次の一文から始まる。「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」 坊ちゃんのした無鉄砲のひとつとして、 自慢の西洋ナイフの切れ味を友達に示すために、自分の親指の甲をはすに切り込んだというくだりがある。 指はいまだについているが、傷跡は死ぬまで消えない、と。

親指の甲とはどの辺りを切ったのだろうと思い,私自身の右指の親指を見てみると、 その甲に、はすっかいにナイフのようなもので切った跡があるではないか。 坊ちゃんとは違って私には全く記憶がなく,こんな傷があることもずっと忘れていた。 まさか切れ味を試すために切ったわけではなかろう。私の指もいまだについている。 親譲りとは到底思えないが、思いつくとすぐに行動に移す、無鉄砲なところはあるのかもしれない。


2003年11月某日

「誰がために太鼓はなる」

毎日5時を少し過ぎたころ、応援団と思しき集団が京大生協脇のエリアに陣取り、 タイコを鳴らし応援の練習らしきものを始める。 学園祭を1週間後に控えているためか、このところその練習には熱が入っている。

このタイコのうるささは想像を絶する。 私は、現在音楽(注:Boston, "Don't Look Back" )を大音量で鳴らし、イヤーマフをあて、耳栓をしている。 こうして打っているキーボードの音はほとんど聞こえないくらいの 装備なのである。ところが、太鼓の音はそれでも頭の後ろのほうから聞こえてくるという 筋金入りのノイズなのである。

しかも、私の研究室は通りに面していないし、応援団が活動している位置から私の部屋までは、直線距離にして 50メートルは離れている。よって、おそらくは経済研の建物全体がタイコで振動しているのと、 前にある事務棟のビルに反響して聞こえる音が、いわば間接的に私の耳に入ってくる にすぎないのにこのうるささなのである。

あまりに腹が立ったので、「学生部」というところに電話をして苦情を言うと、 「この時期はうるさくて、周辺の住民からも苦情が出て困っているんですよ」と あたかも学生部が被害者であるかのようにのたまう。学生のやることだから、 こちらが我慢してくれといわんばかりなのである。 この少なくとも50年は時代錯誤している感覚に基づく返答を聞いてさらに腹が立ったので、 「独法化後は監督事務局が直接周辺住民から訴えられる可能性もある。あなたは 法廷に立つ心構えはできていますか」と、きり返しておいた。

もっとも、これは話のあやというもので、いかに私が世間常識からしてピントが外れていようと こんなことが独法化に関連するとは思っていない。しかしながら、これだけの騒音を 出しておきながら、いまだに訴訟になっていないのは奇跡というべきであろう。

周辺住民に訴える気がないのであれば、私が訴えてみてもよい。 そうすると、いったいどうなるのであろうか。 訴えるとすれば、大学相手になるのだろうか。 ひょっとすると、夕方5時を過ぎて勤務時間外に研究室および国有財産を使用している私のほうが悪いと、 お咎めを受けるのは逆に私の方であろうか。少し興味がある。少なくとも、なかなか面白い趣向だと思う。

経済学的にのべれば、周辺への気遣いが欠落した応援団の態度は「外部性」の問題で、 要するに何も罰則がなければ公害があふれるのと同じ事情である。担当と思しき人からの 「ありがたい」お答えは、責任(と罰則)が明確になっていない組織が きちんと機能しないことの一例といえるであろう。 さらにいえば、私の鳴らすこの音楽も、周辺の人々に迷惑をかけているわけで、 私はタイコの被害者を気取りながら、平気で加害者にもなっているのだ。 このようにして、悪影響は連鎖して行くのである。

現在の音楽はKing Crimson "Red". まだタイコは鳴っている(午後7時15分).

追記:応援団の団長と副団長が、学生部の職員に付き添われて私の研究室まで「説明」に来ました。 記念に、彼らの示した改善策をここに公開します。 学生団体としてできるのは、この程度のことでしょう。学生だけで解決できる問題ではない。 一方で、大学側の対応はというと、30分ほどのやり取りを要約すると、 「学生はこれだけ努力しているんだから、おまえらもちっとは我慢しろ」というのが、 学生部の立場のようです。 もちろん、私は「ただ」では引き下がりません。

追記: 平成18年1月30日付け、京都大学理事 木谷雅人氏からの通達の一部。

1.事案の概要
学生部の職員が、 平成17年5月から同年10月までの6ヶ月間にわたって業者2社からパソコン計19台及びプリンター1台(総額3,787,845円)を京都大学の名前 を用いて発注し、部局長名又は自らの名前で受け取り、当該パソコン等を中古店に持ち込み換金し金員を得たことについて、本日、京都大学教職員就業規則に基づき懲戒処分を行った。 併せて、学生部の監督者責任を問う処分を行った。
2. 懲戒 処分の内容
京都大学学生部厚生課 掛長 ( 45 歳)    懲戒解雇
3.訓告等
京都大学学生部長 ( 52 歳)    厳重注意(文書)
京都大学学生部厚生課長 ( 58 歳)    訓  告(文書)
4.処分の発令日
平成 18 年 1 月 30 日 ( 月 )

2003年11月某日

ミク戦が増刷になります.次は第7刷です.

2003年11月某日

京都に引っ越しました.

2003年10月某日

久しぶりに「戦略的思考の技術」が増刷になることになった。 これ自体は大変喜ばしいことだが、同時に私はタイガースに関する記述を訂正するか否かで、 党の事情で衆議院選挙前に引退を決意せねばならなかった宮沢元首相なみに現在悩んでいる。 (参照1参照2)増刷の時期が日本シリーズの開催中とは、よくよく私はタイガースに縁があるのであろうか。

正確を期すためには例の表現は削除すべきなのであろうか。 いや、現時点ではまだ2勝2敗で、阪神が勝つと決まったわけではない。 しかし、出版社に阪神が優勝するか否かに応じて訂正文を載せてくれと頼むのも、妙な話だ。 ダイエーの優勝を願うのも、本末転倒というべきか。

口は災いの元。悩みの種は、意外なところにまかれているものであると悟った次第である。


2003年10月某日

イタリアのコーヒーといえば、エスプレッソという事になろうか。 蒸気を使って一気に抽出するコーヒーは、とても濃くて苦い。 もとよりがぶがぶ飲むものではなく、少量を、小さなカップに入れて飲むわけだ。 日本でもおなじみになった。

さて、私のイタリアのバーでの観察によるイタリア風の飲み方は、以下のとおりである。 そもそもバーにやってくるのは常連さんが多い。ふらりとやってくると、 「カフェ」と一言。「カフェ」といえばエスプレッソを指す。

彼らは、コーヒーの注文をしてからも店の人となにやら会話をする。 コーヒーが出来て目の前にくるまでの所要時間は40秒ほど。

さて、コーヒーがくると、これにまず砂糖を大量にいれる。 たいていは、グラニュー糖の入ったおおきなガラス容器がカウンターに置いてあるのだが、 そこからスプーンで2杯とって入れる。 それから、スプーンでゆっくりとかき混ぜる。 その間も、店の人や周りの常連さんとの会話を続ける。かき混ぜる時間は3分間。 これをじっくりやるのがイタリア流だ。

そうして、一気に飲む。ちびちびすすったりするのは粋ではないのだ。 ぐっと飲み干す。

飲んだらお金を置いて出てゆく。決り文句はもちろんCiao。店での滞留時間合計4分間。

常々、なぜあのような長い時間をかけてかき混ぜるのかと、私は疑問に 思っていたのだが、最近、これは日本の茶道にも通じるのかと思うようになった。 抹茶を茶碗にいれ、お湯を注いだらカシャカシャとひたすらかき回す。 あの茶せんの動かす行為と、イタリア風のスプーン使いに 共通項があるようだ。

出来上がったら、さっさと飲むところも、似ているではないか。


2003年10月某日

専門科目の授業をした。久しぶりだったので、かなり気合は入っていたのだが、あまり調子が出なかった。頭の切れはいつも以上に悪いし、話していてもろれつが回らない。

この原因ははっきりしていて、前日の深酒なのである。教員たるもの、体調をベストに整えて教壇に上がるべきものだなどといっていた自分が恥ずかしいが、10月の京都は情緒に満ち宴会の誘惑には抗し難い。


2003年10月某日

京都大学に移った。ホームページも移転した。写真も、これを機にすこし社会人風のものに変更。

1991年にペンシルバニア大に就職したときから数えると、大学は12年間で4つ目ということになる。 大学生・院生として所属した一橋とハーバードを入れれば6つの大学、ついでに1年間滞在したベルギーのカトリック大学を数えると7つの大学に所属したことになる。いつの間にか、ずいぶん大きな数になった。

大阪大学社研では、目の前の工事と下の道を疾走する車の音にずいぶん悩まされたが、 こちらの新しい研究室は道路には直接面していないので、それらの音はしない。 ただ、学生が屋外でなにやら音楽を演奏しているのであろう、 夕方になるとドラムの音がずんずんと聞こえてくる。ペンシルバニア大にいたころを思い出す。 目の前に見える、大学本部の建物はあまり美しくない。

結局、大阪大学には1年と2ヶ月所属しただけであった。筑波大学にいたころ、 某氏が筑波に来てからわずか2年で他大学に転出したとき、なんと辛抱のない人だろうと思ったものだったが。


2003年9月某日

阪神が優勝した。「戦略的思考の技術」のなかでの阪神の記述に文句をつける人は今のところいない。

実は阪神優勝決定の日には横浜にいた。U氏と勉強することにしていたので横浜にいったのである。私は阪神ファンというわけではないのだが、この半年ほどの大阪での大騒ぎを思うに、優勝決定時には大阪に居たかったとは思う。

大阪での大騒ぎとは裏腹に、横浜は静かなものだった。飲み屋で知り合ったあんちゃんとの会話から想像するに、横浜ではむしろ横浜ベイスターズが年間100敗の金字塔を打ち立てられるかどうかのほうが重要な問題のようであった。確かに、阪神優勝の日、横浜のマジックは2、すなわちあと2勝すればこの不名誉な記録達成の可能性が消えるというところまできていたのだが、さすがにあんちゃんの言葉をそのまま信じる気もしなかったから、翌日大学で、ためしにS氏に、いよいよマジック2ですね、となぞをかけてみた。すると、この人はちゃんとその意味がわかっていた。阪神が優勝したこともご存知だったが。


2003年9月某日

フロント・ページの写真を道頓堀の阪神のユニホームを来たグリコ付近でのものにしてみた。京都に移るまでの予定。

東京在住の複数の人に「ソースの2度づけ禁止」は、本当かと尋ねられた。少し解説すると、これは串かつの話で、実際に「ソースの2度づけ禁止」の張り紙がある串かつ屋がいくつもある。駅構内での禁煙は意地でも守らない人が多い大阪だが、ソースの2度づけ禁止は厳密に守られている。

ただし、大阪の串かつ屋に来たことの無い人には少々誤解がある。場末の串かつ屋では、ソースはボールのような大きな入れ物にどっさり入っていて、上げたての串を直接それに浸してソースをつけるのである。ソース入れは客の間で共用である。したがって、私の解釈するところでは、「ソースの2度づけ禁止」とは、一度自分がかじった串かつを、みんなが使うソース入れに再びどっぷりと浸すのはいけませんよ、という意味なのである。してみると、「ソースの2度づけ禁止」は公の場でのエチケットとも言うべきことであって、大阪人の感覚で言えば、「ソースの2度づけ禁止」を奇異の目で見られることが、かえって理解に苦しむことなのである。

ところが「ソースの2度づけ禁止」の話を聞いて驚いた非大阪人たちは、これととんかつ屋のトンカツ定食と混同しているのだ。つまり、ソースの入ったビンなどの容器から、ソースをカツの上にかける回数が、大阪では一回に制限されているのかと思ってしまうようだ。したがって、ソースをかける回数を制限するなど、大阪人はけちくさい、大阪はやっぱり妙なところだなと思ってしまうのだ。

たしかに、巨大なトンカツをそのままどっぷりソース入れのソースに浸すような食べ方をする場所は、おそらく大阪にも無かろう。だから、串に刺さった小さなカツをソースに浸すという場景が、トンカツ定食と混同している人の思考回路から完全に欠如しているのも無理は無い。

さて、写真の場所、道頓堀戎橋あたりは、大阪の「下品さ」を表現する特別な場所として使われるらしい。実際、ジュリエットが戎橋で涙する映画のシーンは似合わないが、ナンパ師や金貸しが闊歩すると、なぜか風景になじんでしまう。もとより,大阪を代表するような文化ではないから、ここが大阪の象徴だと言われると、複雑な気持ちになる大阪人はかなり多いはずだ。私はもともと、ごみごみした怪しいところが大好きなので、このあたりの風景は好きなのだが、これは私が非大阪人である証拠なのかもしれない。

追記(2003年11月): もしも、かじってしまってから、ソースが足りなかった場合には、串かつ屋には必ずあるキャベツを刷毛のようにして、ソースをからめて自分の串カツにつけるのが常識なのだそうでが、これは知りませんでした。私は、そうしている人を見たことはないですね。


2003年8月某日

「戦略的思考の技術」は中国語(台湾)に翻訳されるらしい。 「らしい」というのは、独占翻訳権は売ったのだが、実物が出来るかどうかは 最終的には権利を買った先覚出版とか言う会社の判断になるからだ。

この話自体は今年の3月にあって、そのときに了承していたのだが、すっかり忘れていた。 つい先日、アドバンス(印税の前払い)というのが振り込まれたので、思い出したというわけだ。

翻訳というとずいぶん景気よく聞こえるが、中間に入るエージェントの取り分や、 日本と台湾の両側で税金がかかるので、原著者はあまり儲からない構造になっているらしい。すくなくとも、アドバンスの額をみる限りでは、そのようだ。

ところで、あの日本語のタッチをどのように中国語化するのだろうか。 興味はあるのだが、私は中国語が出来ないので、どのように翻訳されても何ともいえない。そうかといって、英語ならば自分で訳せるかというと、それには自信が無い。まず、できないであろう。この本は、私が日本語思考モードで書いたもので、英語思考モードの私にはその感覚が真似できない。

一方で、英語モードの方がはるかに書きやすい時もある。U氏との「ゲーム理論の新展開」(今井晴雄・岡田章編)に書いた「共有知識と情報頑健均衡」というのは、そもそも英語モード思考で考えていた事柄を、日本語で表現するという作業をしたので、非常に苦労した。

ただ、翻訳はそれ自体が「作品」なのである。原著者など気にせず、自由にやってほしい、という感覚も私にはある。中国語が読めないのは、むしろ好ましい事なのかもしれない。


2003年7月某日

人間ドックで検査をしたら、「眼圧」がずいぶん高いと診断された。眼圧とは文字通り眼球内の圧力のことらしい。これが高いと緑内障、 網膜剥離、脈絡剥離を起こす、あるいは起こしている可能性が高いとのこと。そういった説明を受けたときの、私の驚きを言葉にするのは難しい。

そもそも、私の体の部位で、眼は自信を持って人に誇れる数少ない優良なパーツであった。眼鏡やコンタクトレンズのお世話になったことは無く、病気らしい病気もしていない。そもそも眼の検査らしい検査を受けたのも今回が初めてで、「ガンアツ」という言葉も、今回指摘されて初めて知ったくらいなのである。そんな私が如何にショックを受けたことか、読者も察してほしい。

医者は、危険な場合もあるので、出来るだけ早く専門医に検査を受けるよう薦める。こちらもかなりうろたえて,仕事が手につかない。それで翌日早速眼科医にいって再測定してもらうことにした。

さて、眼圧の測定器はどのようなものかというと、台の上に患者の顔をのせさせ、ライフルの子供のようなものにゅっと突き出して、眼前の至近距離に固定する。こちらの注意を何かぴかぴか光るものに集めておく。油断したころをみはからっておいて、いきなりライフルの先端から空気をふっと眼に吹きかけ、何かの反応を測定するという、野蛮な仕組みの器械である。人間ドックで使われたのもこの形式の器械であったし、この眼科医でも同じだ。

看護婦A 「じゃこっちをみていてくださいね」

梶井 「これ、先っちょから、ふっと空気が出るやつですか」

看護婦A 「そうですよ。でも、痛くないですよ。あ、だめですぅ。逃げちゃ。」

梶井 「わかっていても、抵抗ありますね。」

看護婦A 「いたくはないでしょう。頭動かさないでください。もう一度いきます。あ、だめですぅ、目を閉じちゃ」

先生 「Aさん、閉じないようにまぶたを手で抑えてはからなきゃ」

逃げ惑う私の頭は抑えられ、まぶたも手で抑えられつつ、なんとか測定終了。

看護婦A 「まぶたにものすごく力はいってますよ。やっぱり少し眼圧高いですね。」

先生 「違う方法で測定しましょう。」

今度は麻酔の入っている目薬をさされた。私には初体験で、目がジーンとする。すると先生はもうひとつの器械を取り出し、私にその器械の先に頭を乗せるように命じた。

先生 「この器械は、眼球に直接検査器を当てて調べる方式です。麻酔が効いているので、何も感じないですから、安心してください。」

梶井 「直接、ですか…」

先生 「じゃ、いきますよ。あ、だめです逃げちゃ。」

梶井 「先生、私は生まれてこの方、眼の玉なんか触られるの初めてなもので。コンタクトレンズだって使ったこと無いわけですし。化粧だってしたことないですから。自分でも触ったこと無いんですよ。」

先生 「それはわかりますけどね。でも信頼してもらわないと。そこの下のハンドルを握ってください。あ、だめです、目をつぶっては。Aさん、まぶた抑えて。梶井さん、そんなに力入れてハンドル握ったら壊れます。頭後ろにそらさないで。Bさん、後ろから抑えといて」

もがく私を、一人の看護婦が頭を後ろから抑え、もう一人がまぶたを抑え、そして先生(注:女性)が棒で眼をつついている状況は、ここが眼科の診察室でなければ、相当に奇妙に見えたことであろう。

汗だくの測定の結果、めでたく眼圧は正常という事になった。麻酔というものはたいしたもので、棒でつつかれても触られている感覚さえなかった。ついでに眼底なども見てもらったが、こちらも健康そのものとのことであった。

要するに、息を吹きかける方式の器械だと、私が身構えてしまって力が入るため、ちゃんとした測定結果が出ないのだ、という結論になった。それを聞いて安心した私だったが、よく考えてみると、あの野蛮な器械に慣れておかないことには、毎年眼圧が高いと指摘され、その都度このように再検査に時間と金を費やすことになる。誰かにストローで眼に息を吹きかけてもらって練習すれば、少しは慣れるのであろうか。困ったものだ。


2003年7月某日

先月40歳になった。

私が一橋大学の大学生のころ、確か学生向けの学内誌のようなものであったと思うが、S先生が「40歳の法則」というようなタイトルでエッセイを寄稿されていた。40歳になったとたんに起こる心境や環境の変化について、ジョークを交えて書かれたエッセイであった。面白いエッセイで、大変関心したので、どこかに保存した記憶がうっすらあるのだが、探しても出てこない。

先生は、40歳になって起こることをいくつか列挙され、それらがうそだと思うのならば40歳になってみろ、と表現されていた。私は当時20歳前後であったはずである。書かれていたことは、面白いとは思ったが、実感としては心に染み込まなかった。一方で、そのことはうそだとも思わなかったのだが、40歳にはなってしまった。

北杜夫のエッセイ「どくとるマンボウ途中下車」のなかに、40歳になるときのショックを先読みして、38歳のときに、すでに自分は40歳になってしまったのだと、自分を暗示にかけるというくだりがある。私は、10代の時にこれを読んで感心し、自分もその時期になったらやってみようと決意して、メモまで残している。ところが、その後それをすっかり忘れてしまって、何の準備もせずにいきなり40歳になってしまった。

さて、40歳になるとどのようなことが起こるのかということを、いろいろと発見したのだが、ここに書くのにふさわしくない事柄が多いので、やめておく。一つ書くとすれば、ささいなことに馬鹿に感傷的になったことだろう。少々誇張して言えば、大阪から飛行機と電車を乗り継ぎ、長い坂をバスで登り、小樽商科大学の正門の前に立つと、ああここまでまた来たのだと思わず涙が出てしまう。そうかと思えば、書いている完成間近い自分の原稿を、突然かっとなって全部破り捨ててしまいたくなったりする。そんなノリなのだ。

この気分は、40歳になってみないとわからないだろう。一方で、この気分を理解して、自分は少し成長したかなとも思う。この気分の意味がわからないならば、人間として本物ではない。悔しかったら40歳になってみなさい。


2003年7月某日

小心者のくせに、私は遅刻の常習犯だ。自己弁護をすると、私は小心者なのだが、一方で「効率性」に人一倍気を使うので、つい約束の時間ぎりぎりにつくように予定を立ててしまうのだ。

さて、小樽商科大学での研究発表を終えた後、札幌でのこと。卒業生のM君と1年ぶりに会い、昼食にジンギスカンを食べた。前もってYahooの路線検索で電車の時刻を調べたところ、3時25分の札幌発快速電車に乗れば飛行機の出発25分ほど前に空港駅につく。効率性基準からはこの電車が最適なはずだが、それを初めから予定しておくと、話が弾んで電車に乗り遅れたりすると一大事だ。ぎりぎりまで粘る自分の行動を先読みし、3時10分発の電車に乗ろうと決めた。

すると私の読みどおり話が弾み、予想通りぎりぎりになって店を出ることになった。店の前でタクシーを拾ったが、その後、タクシーは札幌駅前で大渋滞に巻き込まれ立ち往生。当然3時10分の電車にはのれず、まごまごすると25分発も怪しい状況になった。それで結局手前で降りて歩く羽目に。なんとか25分発に間に合い、空港のJALの自動チェックイン機の前に出発時刻の20分前に無事到着した。

一安心して、自動チェックイン機にチケットを入れた。ところが、座席の指定はとれずに、「係員に問い合わせてください」というメッセージが画面に出るではないか。まさか乗り遅れたのではとそばにいたJALの職員に問い合わせてみると、なんとオーバーブッキングで、座席が取れないとのこと。しかし、1万円の「協力金」をもらって、45分あとのANAの飛行機にトランスファーされるだけですむと分かり、一安心。

余裕を持って空港についていれば、座席が取れていたであろう。ぎりぎりに着く効率性を追求したからこそ、得ることのできた1万円だった。こだわりは捨てない方がよいものだ。

さて、手荷物検査を過ぎ、ゲート近くに座っていると、そのANA機もオーバーブッキングになったらしく、協力金1万円をあげるから、あとの時刻の飛行機で帰っても良いという人はいないかとアナウンスがあった。問題:そして私はどうしたでしょう。


2003年6月某日

京都大学経済研究所に今年の10月に転任することになりました.

2002年3月の独り言では、「大学再編改革の流れで研究所自体が近い将来消滅する可能性がある」と述べていましたが,正直言ってこれほど面倒なことになるとは思っていませんでした.幸いにも,今回の危機は脱しましたが,禍根を残したことは確かです.

現在の社会経済研究所での環境にまったく不満はありません.京都の研究教育環境もすばらしいですが、阪大よりはっきり優れているかどうかは、わかりません.

では,なぜ動くのかというと、数年のうちに環境が悪くなるなるのではないかという危惧からです.実際にはそうならないかもしれない.しかし,その可能性から来る不確実性や不安によって、現在の私の行動はかなり束縛せざるを得ません.社研関係者にはまったく申し訳ないですが,それらの不確実性や不安から「逃避」するために私は移ります.

私のわがままによって不利益をこうむる方々に,心からお詫びします.


2003年5月某日

阪神の快進撃は続く.5月はすでに16勝で、これは31年ぶりだそうだ。関西テレビでは、他局にさきがけて優勝特番をやっていた.

拙書「戦略的思考の技術」72ページを見ると、「適切なインセンティブを与えられなかった男性がある日突然服装のセンスに目覚めるなどは,阪神が日本シリーズで優勝するよりも可能性が低い」と言う記述がある。まずありえないこと、を表現するためのユーモアのつもりだったのだが,この分だと事実誤認になるのかもしれない。今のところ、球団からの抗議の電話や手紙は来ていないが、甲子園に行くときにはサングラスくらいしていったほうが安全かもしれない。

実は、この部分はもともと2002年の3月ころ書かれたのであるが、そのときは「阪神が東京ドームで3連勝するより難しい」と書いたのだ。さすがにこれではユーモアにならないかもしれないかと考え直し、「適切なインセンティブを与えられなかった男性がある日突然服装のセンスに目覚めるなどは,阪神が優勝するよりも難しい」という表現に改めたのである。

ところが阪神は昨年2002年も春先に快進撃をして首位を走っていた。5月には、十三あたりの飲み屋でも、優勝への貢献度は誰が一番かという話題で盛り上がっていた。「今年は絶対や」と自信満々に語るおっさんたちを見ているうちに、これはひょっとすると優勝してしまうかもしれないと私は弱気になってしまったらしい。単に優勝ではなく、日本シリーズで優勝くらいにしておいたほうが安全であろうし、また「難しい」では主観が入っていてあとで文句を言われると閉口するから、「可能性が低い」という客観的かつ相対的な表現が無難であろうと考えた。その結果、上記の表現に落ち着いたのである。

してみると,昨年もこの時期にこのくらいは盛り上がっていたので、いまさら阪神ファンに襲われることを心配する必要もないようだ。7月終わりにまだ独走しているようならば、この表現を削除することを検討することにしよう。

追記(2003年7月某日) いよいよ決まりやねん。実は学生のH君と阪神が優勝するかどうかで賭けをしていたのだが、歴代最速でのマジック点灯に、さすがの私もへこたれた。それで、不良債権を処理すべく、支払いを済ませてしまった。中公新書の修正については、最近はとんと増刷の話が無いので未定。


2003年5月某日

「現代国語」という教科がある。私は高校の教科の中で、この「現代国語」が苦手であった.授業も好きになれなかったし、試験の出来も良くなかった.「現代国語」は大学入試科目の中でももっとも苦手な科目であった.漢字の書き取りや四文字熟語探しなどの問題は良いのであるが,「下線部について筆者の見解は何であるか述べよ」という形式の「読解問題」では、私の見解と筆者の見解が一致したためしはほとんど無かったといってよい.

それでいて現在学者の看板を揚げているのはイカガナモノか思う読者もいるやも知れぬから、学者というものは自分の見解に首尾一貫した論理性があればよいわけで、文献を筆者の意図どおりに読んで差し上げる必要などさらさらないのだということを強調しておく.発見や進歩というものは誤解から生じるものである。

現代国語の面白く無さは、判じ物のような試験問題にあるといえる.入試が「現代国語」をつまらなくしているとすると責任は大学側にあることになるのだが、私にはそう思えてならない.私の受験生時代には小林秀雄の文章が珍重され、これが解らないようでは東大には受からないとうそぶく悪趣味の同級生までいたほどだ.当時の私には小林秀雄の文章は全く理解不能で,それにまつわる設問は当然奇々怪々であった.それに対する私の解答が「正解」を射抜いた頻度に比べれば、天満の居酒屋で私の本を読んでいる人物に出会う可能性のほうがまだ高い.今読んでみると,年の功であろうかさすがに少し解るようになっているのであるが,こんなものを高校生相手に使うなど、大学教員によるいじめとみなされても仕方なかろう.東大に受かる気は無かったのが、私にとってせめてもの救いというところであろうか.

今年の某入試問題に、某著名経済学者の文章が使われていたことに対して、「あんな人のものを使ってよいのですかねぇ」と評した人を少なくとも3人知っているが,それを聞いたときすぐに小林秀雄を思い出した。小林秀雄の文章と同格にするなどナンセンスだと怒る人もいるかもしれないが、文章の格とか価値とかという問題はさておき,入試問題には適度に論理性があって、しかもわけのわからない文章が好まれるということは、入試による選別をせざるを得ない出題者のインセンティブを考えれば明らかである.論理が透明で、内容明快なるまっとうな文章は、入試には使いにくいはずだ。入試に使われるということは、出題者がこいつはミョウチキリンな文章だと思っているというレッテルを貼ったシグナルに他ならない.

「あんな人」の文章は、その意味で好まれそうな文章なのだと、私はつい先週もその持論をラウンジでぶったのだが、その直後に受け取った郵便物の中に広島大学入試課からのものがあった.なぜ他大学の入試に私がかかわらねばならぬのかと不信に思いつつ開封すると、私の「戦略的思考の技術」の一部を今年度の広島大学の入試で使用したという手紙が入っていた.今後、持論は撤回すべきなのか,私の悩みは尽きない.


2003年4月某日

私は基本的に愛国者であるが、その看板をはずしたい対象もある。それはわが国の喫煙者のマナー、車の運転、そして大音響で名前を連呼する選挙運動である。

喫煙者がマナーの悪いのは私が見る限り世界的な現象である。そもそも公衆の面前で喫煙するという行為自体が、喫煙がどれだけ迷惑なことなのかその人に理解する能力が備わっていないことを示すものだ。理解できない人たちに対して、マナーを守った喫煙をするよう注意を喚起して深慮ある行動をお願いしても、子供に線形計画法の双対定理の講釈をするするようなもので、無駄なことである。見つけ次第射撃するなど、罰則を伴った法的強制力によって規制するより手がない。

車の運転マナーが悪いのも、必ずしもわが国に限ったことではない。運転マナーは客観的に測定することが難しく,またマナーの悪さの証拠を示せるのは事故がおきたときくらいしかないので,行為がすぐに観測可能な喫煙より対応が難しい。経済学風に言えば、これは外部性のあるモラル・ハザード問題であって、最高級に難しい。

選挙運動については、大音響で不特定多数の人に被害を与えるこのような客観的観測可能な行為が何ゆえ合法的なのか私には理解できない。テレビ・新聞・ラジオの普及率はほぼ100%であるから,選挙が行われることは誰でも認識しているし候補者の名前もすぐにわかる。言いたいことがあれば,上記のメディアだけでなくネットでもチラシでもつかって主張すればよいであろう。

私は宣伝カーで名前を連呼する候補者には投票しないことにしている。そもそもこの文章を書き始めたのは、うるさくて勉強できないからだったのだが、書き始めてから10分ほどの間にも5台の宣伝カーが通り過ぎ,あまつさえそのうちの3台は同じ候補者だ。おかげで名前は良く覚えることができたので、こいつには絶対に投票しない。


2003年3月某日

千と千尋の神隠しに出てくる「りん」さんは、人間でないとするといったい何なのだろう。

追記: たれこみ情報 「千と千尋の神隠しに出てくる「りん」さんは、きつねなんだそうです。 ほかの、顔の大きい女の人たちは、なめくじらしいです」


2003年2月某日

15日の朝、デパートの商品がいっせいに「ホワイトデー」に切り替わっていたのが印象的でした。 職業柄、 バレンタイン=投資、 ホワイトデー = 収益 とつい翻訳してしまいます。投資した人もされた人もがんばってください。


2003年2月某日

M井さんの「慣習と規範」本はあっという間に重版がかかったらしい。あのレベルの専門書をあっという間に売り切るのはオドロクべきことだ。

驚いてばかりいられない。紀伊国屋梅田店ではビジネスコーナーに私の本とM井さんの「戦略本」が隣り合って並んでいた。「慣習と規範」のほうは経済書コーナーにどっかりと平積みになっていて、こちらも私の本の隣においてある。しかし、けしからんことにその山で私の本がブロックされて見えなくなっている。皆さん邪魔なので買ってしまってください。

追記(2003年11月):M井さんの本は日経賞を受賞しました。おめでとうございます。


2003年2月某日

私が書店に行くとまずすることは、「戦略的思考の技術」の場所を探すことで、発見すればそれを取り上げ、真っ先に第何版かを確認すべく後ろのページを見る。梅田の紀伊国屋で飽きもせずに、一冊一冊取り上げて後ろのページを見る奇妙な動きをしている人物を発見したならば,それは間違いなく私である。

梅田の紀伊国屋でするのは版の確認だけではない。ここで、「戦略的思考の技術」を手にとる人を観察するのは私の趣味といえる。さて昨年9月以来、私の長時間にわたる辛抱強い観察の結果、紀伊国屋でとられる人々の行動は次のパターンで展開される事がわかった。

1.手にとりオビを眺める。

2.著者紹介の部分を読む。

3.本の中ほどあたりをぱらぱらめくる。

4.はしがきを読み出す

5.結構熱心に読み出す

もちろんこの5つのステップをすべてこなす人はそう多くないが、この順序どおりに行動しない人はほとんどいない。つまり、1でやめてしまう人や1から4までだけで5に行かない人はたくさんいるが、1,2、3を飛ばして4に行く人は一人として見たことがない。

このことから、オビと著者紹介の重要性を改めて認識したものである。オビが目立つことは人目を引くのにとても重要、さらに著者のプロフィールも重要で、仮に現在の職業が「プータロー」であったならばだれも次のステップに進まないであろう。阪大やハーバードの名前があるからこそ第2ステップの突破が容易になる。経歴学歴というのはそれほど大切なのだ。

しかし、私はこれまで次のステップ6に至った人を目撃したことが無い。

6. カウンターに持っていって購入する

 


2003年2月某日 しきたりの違い

関東では、電車のはいるホームの位置を、1番線、2番線と呼ぶが、阪急線ではこれを1号線、2号線と呼ぶ。はじめはちょっと面食らったが、今は慣れてしまった。

大阪では、エスカレータでは右側に並ぶのが原則で、追い越すのが左側である。東京だとこの逆で、お隣の京都でも逆である。「右側」文化と「左側」文化はどのように分布していうるのか非常に興味深い。ところで、この原則は平坦な「動く歩道」にも適用される。この場合、動く歩道の上をゆっくり歩きたい人が右側で、速く歩く人が左側というのがしきたりである。このようなところで立ち止まって歩道の動くままに身を任せたりしていると、すぐさま「外国人」であることがわかってしまう。

大阪にはタイヤキがないようだ。先日来日したG氏はタイヤキが好物で、タイヤキぐらいどこにでもあるだろうと、気をつけてあたりを見始めても、意外や意外、一軒として発見できない。「大判焼き」など、それに類したお菓子は随所に見かけることはできて、「パンダ焼き」まではあったのだが、タイヤキだけはどうしても見つからない。

居酒屋でのこと、「あては何にしましょ」と言われる。「あて」とは「わたし」の意味かと思ったから、初めてこれを聞いたとき、大阪の居酒屋では店の人に何かおごらなければいけないのかと思った。まるでバーやクラブの女の子のようだ。もちろんこれは私の誤解で、「あて」とは「おつまみ」の意味。常用単語。

年が明けたころから、節分用の「まるかぶり寿司」予約受け付け、という広告をよく見るようになった。どうやら「まるかぶり寿司」とは太巻きのことらしい。大阪では節分には太巻きを使うのだと聞いて、気性の荒い大阪人は豆の代わりに寿司を投げつけるのかと思った。しかし運命の2月3日にはとりわけ目立った騒ぎも起こらなかったので、これらの太巻きは食用に供されたと推測される。

追記その1: 都立大のT氏と北大のT氏からの指摘: 大阪の右側通行は大阪万国博覧会のときに、大阪や近隣の観光地で、海外からの来訪者に備え、もともと左側通行だったのを右側に直したとのこと。大阪ではそれが定着したが、京都ではもとのしきたりに戻ったとのこと。

大阪では東京の反対をすることが好まれるから、右側通行が定着するのも納得できるし、何かとしきたりにうるさい京都人がもとに戻るのもそうかもしれないと思う。しかし、この前奈良に行ったら右側通行だったように思うから、奈良ではそのまま定着したのだろうか。

しかしながら,そもそも海外からの来訪者のために右側通行に直したところが解せない。というのも、私の海外生活経験で、エスカレータで立つ位置を気にしたことや、気にさせられたことは無かった。スパゲティを食べるのに、スプーンとフォークをつかう(使っていた?)のと同じ理屈だろうか。

追記その2: 京都も右側に立つほうが多いらしい。ただし、京都は観光客が多いため大阪ほど厳格ではないとか。

追記その3: 天神橋筋商店街(5丁目あたり、すこし脇に入る)にタイヤキの店発見。タイヤキだけではなく、当然パンダ焼きもある。

追記その4:Hさんからの情報:「短大の授業で似たような内容のテーマで興味ある話を聞いたことがあります。東京と大阪の「追い越し」側が違うのは、商人と武士の違いがあったようです。大阪商人は財布を右側に持っているそうで、(江戸に限らないとは思いますが、)武士は刀を左側に携えるからだ、ということでした。 もし、武士が右側に立ち止まって、自分の左側を追い越させるとしたら、 刀が他人にぶつかったり、刀や自分を傷つける恐れがある。 商人が財布を他人から盗られにくいようにするには 右に寄って歩く方がよいそうです。 この説を私はずっと信じていましたが、いろんな説があるんですね。」

するとエスカレータに限らず、路上でも追い越し方が違うはずですね。これから注意してみてみよう。

追記その4の追記:天神橋筋商店街は右側通行だ。縦横無尽に歩き回るおばちゃんたちを除いて

追記その5:中にはこんな反応をする人もいる:「(2月某日「しきたりの違い」)を読んで、はじめて「あて」(酒の肴の意味)が通じない人がいることを知った。」(某HPより無断引用)


2003年1月某日

同僚が言ったこんな言葉が妙に印象的だった。

「一年寝つづけて起きたらみんなすっきり片付いているんだったら、寝るんだけどな」


2003年1月某日

こんな夢を見た。

駅を出て人がやっとすれ違えるほどの路地を進む。目的の店の暖簾をくぐると中 は暖かい。カウンターの中にいた若い女性に「いつものにします?」に声をかけられたので、うなずいて席に座ると、その娘は心得たとばかり歌いだす。心地よい歌声を持つ その女性をよく見ると元ちとせだった。

「仕事を変えたんやて?もうかりまっか」と隣の黒い革ジャンを着たパンチパーマのおっさんが聞くので「ぼちぼちやね」と応えておく。「それより、例のところに今度連れて行ってくださいよ。」 いったいどこのことかはわからない。

「燃料電池に変えたの?」と、おっさんは皿洗いをする金髪の女性と話をする。 「受賞のお祝いにメーカーさんがおいていかはったんですよ。火を使わなくてよくうなったんで便利になりました。電気代はかからないし、ガス代もかえって安う なったし。」 何の賞かは定かではないが、この娘はちょっと太ったみたいだと 思った。

そのうちに歌が終わる。歌の娘は今度結婚するそうだ。相手は私よりも年上と聞 いて、なぜか元気の出た私はかばんの中からダンベルを取り出そうとするが、で てこない。

「あれ、入れといたはずなんだが。」

ああ、こんなに物忘れがひどくては話にならないな、と思ったら目がさめた。