2008年の独り言

by 梶井厚志

2008年12月某日

城崎に行った。城崎温泉は8世紀から開けたといわれる古い温泉である。 狭い地域に温泉旅館が立ち並ぶが、ここでは外湯巡りというのが有名。 7つある温泉だけの外湯を、巡りあるいて入ってまわるのである。外湯とは、いってみれば銭湯のようなものだ。

全長1キロほどの、湯の街中心を通る道沿いに、7つの外湯がある。 はいると履物の下駄を預かってくれる。預かり証などないのだが、風呂からあがって出てくると、 さっとだしてくれるのである。さすがプロでこちらの顔まで覚えているのかと感心したが、 よく考えたら、こちらは泊まっている宿の印のはいった浴衣とどてらを着ていて、 しかも履物にも宿の名前が大きく書いてあるから、 顔を厳密に覚えていなくてもそれほど難しくはない。 とはいえ、顔を見るなり、さっと出されると偉くなったようで気分が良く、やはりこれはプロの技だ。

さて、外湯の中。これは、狭い。7つのうち3つに行ったが、どれも思ったより大分狭い。 考えてみれば、古い温泉街だから、大きい施設があると思っていたほうが悪い。 しかし、なにせ客も多いし、ゆったりとつかって風情に浸るというわけにもいかない。 また、どんどん回らなければという強迫観念にも駆られてしまい、 自らもあわただしいのもいけない。 湯の中で瞑想にふけるのが私の趣味だが、どうも落ち着かないのである。

とはいえ、浴衣に身を包み、下駄をつっかけて外湯巡りをすれば、 温泉町という雰囲気を、大いに味わうことができる。 これはおつなものだ。

時節柄、宿ではまたしてもカニを食べた。ズワイガニ。生のをしゃぶしゃぶ風にいただく。こちらもなかなかおつであった。 残念なのは、酒の味がもう一つであったことか。


2008年11月某日

私はカニ好きである。 今年も再び上海にて、上海ガニを食べた。養殖が湖の汚染の原因になるということで、 今年は養殖できるエリアが規制され、 品不足になっているとのうわさを聞いていたので、心配していたのだが、Sさんのおかげで今年も食べられた。 もとより、カニを食べるのが目的ではなく、これは上海財経大学への出張のおまけ。

おまけついでに、上海では、書店に行って自分の故事成語本を探してみた。 売れているという感じではなかったが、一応本棚にはあったので、記念に一部購入してきた。 日本円にして600円強の値段が定価の本であるが、これは現地の所得水準を考えれば、 それほど安くはない買い物のはずである。 私の本を立ち読みをしている人がいたら、声をかけて原書を進呈してやろうと思っていたが、 付近にはまったく人がいなかった。そのため、不審者と間違われることもなかった。

翻訳を見ていて気づいたのだが、日本で通用している形と、本場での形は必ずしも一致しない。 たとえば、「蛇足」は「画蛇添足」となる。 聞いてみると、これは漢字四つで音にリズムが生まれるからだそうだ。 語源は同じ話なのだから、これは日本語にとりいれられたときに、 この音のリズム感が大切にされなかったということであろう。

全般に、日本語では、読んだ時の音の感じが大切にされていないように思う。


2008年10月某日

確か中学生の頃だったと思う。海外の短波放送を聴くというのが流行して、 私もみごとに感染した。ナショナルの「クーガ」というラジオを駆使して、なんとか海外のラジオ局を聞こうと努力したものである。 「クーガ」はたしか3万円くらいしたと思う。 子供のことであるから感染はすぐに治り、ラジオはそのうちに処分されてしまった。

海外に住んでいたころ、NHKの海外向け短波放送をよく聞いたものである。 その時のラジオは、Radio Shackという量販店(?)で買ったもので、確か70ドルくらいで買った。 「クーガ」はダイヤルを回してラジオ局を探すというアナログ方式だが、こちらはデジタルで、 聞きたい周波数を入力すると即受信できる。感度はあまり芳しくなかったように記憶するが、 それでもNHKの海外向け短波放送を聴くには十分だった。 このラジオは日本のFM周波数帯に対応していなくて、またAM放送の刻みも日本と対応していなかったので、 日本に持って帰ってきたものの、使いにくかった。 またなんといってもインターネットの発展で、ラジオなど聴かずとも情報がとれるようになって、このラジオを聴く機会もなくなってしまい、 、結局人にあげてしまった。

しばらくラジオのことは忘れていたのだが、あるとき安い中国製の短波ラジオを家電量販店で発見し、 急に懐かしくなって買ってしまった。 2500円くらいだったと思う。安いくせに感度は悪くなく、いじっているうちにいろいろな放送が飛び込んできて 面白い。 海外からの英語放送など聴いているとなつかしい。そんなわけでまたラジオを聴くようになった。 短波放送の英語がわかるようになったのが、中学生ころとの大きな違いである。もっとも、 短波ラジオの時代は明らかに終焉していて、昔に比べて放送の数はかなり少ないが。

そうこうしているうちにもう少し良いラジオがほしくなり、 済南に出かけた時にもう少し高級な短波ラジオを買った。 なぜわざわざ中国でと思う人もいるだろうが、 今や短波ラジオは中国でつくられて全世界に輸出されているものが非常に多いのである。 デパートで500元ほどだったから、8000円くらい。 これでもかつての「クーガ」よりはるかに性能が良いからまさに隔世の感がある。 このところ、こいつをいじって遊んでいる。 いざ聴き始めると、テレビよりもラジオのほうがこのところの自分のリズムに合うようだ。 はじめは短波放送を狙っていたが、このところは地元のラジオ局、とくにNHKをよく聞いている。 そんなことなら、もっと手軽なラジオでも十分なのだが。実際、 持って歩くには私の愛機はちと重く、携帯に便利で歩くときに持ってもかさばらない 小型のAMラジオがまたほしくなった。

注:ところで、「ナショナル」ブランドがなくなってしまったのは、とてもさびしい… 「パナソニック」のラジオではなんだか妙な響きである。もっとも、ラジオなどもう作ってはいないのだろうが。


2008年9月某日

野球をテレビで見ることはほとんどない。前にも書いたが、私は試合終了までの放送が確約されている場合しか、 テレビ中継を見ないからで、そうなると休日朝の大リーグ中継くらいしか見るものがない。

面白いことに、そうなると新聞やその他のメディアでも野球にあまり注意を払わなくなる。 もちろん、ニュースなどで試合結果などを報道するのを目にはするのだが、 言葉は耳を右から左に通り抜け、画像は眼に沁みつかず、 ようするに見聞きしてもまったく感激しないのである。

そんなわけで情勢に疎くなっていたのであるが、 いつのまにか阪神が巨人に追い付かれそうになっているのでびっくりした。 たしか大分前にマジックが出て、今年の野球はすでに終わったと思っていたらそうではなかったようだ。 もっとも、阪神が一方的に勝ちまくっては、経済効果も限られたものになろうから、 このように競り合うほうが良いことなのだろうと思う。

しかし、いったいいつの間にこんなことになっていたんだ?


2008年8月某日

山東省の済南に行った。

山東省では餃子の種類が豊富であり、食事の最後には、飯・麺、それとも餃子にしますか、などと聞かれた。パンケーキのようなものにねぎを巻き込んだのもよく食べられるファースト・フードのようである。

数ある興味深い素材の中で、特に私の興味を特に引いたのはナマコである。ほしたナマコを戻したものがつかわれた料理が何度か出てきたから、山東省ではナマコをよく食べるのかというと、そうであるという。日本では刻んで酢の物というのが一般的であるが、これだとナマコの味はいわば潮の味だ。ナマコ本体の味はというと、どうもはっきりしない。潮の香りそのものを楽しむにはよいが、ナマコの身の味はよくわからないのだから、日本流の食べ方は料理としてみれば必ずしもおもしろくない。

中国の乾物屋に行くと、たいていほしたナマコをおいてある。元はどのくらいの大きさだったのかはわからぬが、乾燥させたナマコは親指よりも多少大きいくらいの程度まで縮こまっている。これを時間をかけて戻すと倍以上の大きさまでに膨れ上がるから、こいつを料理に使うのである。乾燥ナマコには生では味わえない風味があり、またナマコの身が柔らかく、とろっとしたゼラチン質のその触感が楽しくて、炒め物や煮物によい。もとより、そのまま単体で楽しむものではないから、味は何と一緒にどのようなスープと煮たり炒めたりするかで決まってくるわけだが、だからこそいかにも料理であろうと私は思うのである。


2008年7月某日

シンガポールでは小さな食べ物屋の集合体(フード・コート)がいたるところにある。屋内のものもあるし屋外のものもある。 暑いところだから屋内のもののほうが快適かというと、 毎日のように降る夕立のあとなどは、屋外のほうが気持ちが良いようにおもう。

典型的なフード・コートには小さな食べ物屋が10軒くらいあって、それぞれが異なる種類の各国風食べ物を専門にしている。中国の各地方料理、マレー、タイ、ベトナム、インドなど、種類は豊富だ。日本風の食べ物を出すところもある。だから、どのフード・コートに出かけて行っても、 何かしらその日の気分に適したものが食べられるのである。

基本的にセルフ・サービスであるから、食べたいものがありそうな店に行って、その場で注文することになるが、 メニューは英語で書いてあるし、また料理の写真も用意されているところが多いから、 ひとりでやってきても意図せず妙なものをたのんでしまって大きく失敗するというようなことはない。味も、もちろん場所によるのであろうが、そこそこたべられる。値段も安い。 店がたくさんあるから、競争原理がつよく働くはずで、味も値段もこなれているのはそのためではないかと思う。複数のフード・コートが近接していることもあるから、その間での競争というのもあろう。

ところが、店が競って客を呼び込もうとしているかというと、必ずしもそうではない。 にぎやかに客に呼び掛けるおばちゃんがいるかと思えば、 本当に商売をする気があるのだろうかという無気力そうな兄ちゃんが店番をしていることもあるということだ。 今回の訪問では、インド風の料理を食べてやろうとフード・コートに出かけたが、 そこのにーちゃんが全く無気力、こちらが話しかけてもテレビに気を取られている始末、 こんなところでは食べる気も起らず結局退散した。インド系のところがかならず無気力に見えるかというと、そんなことはないし、中国系のところでこの種の無気力対応をされたこともあるのだが、 各所でつぶさに観察していると、やはりインド風のところでその傾向は強いように思う。 もっとも、これは我々がもつ「サービス」の感覚が彼らのとは違うからなのかもしれないが。

事実、2つ目に行ったフード・コートにあった北インド風料理の店にいたあんちゃんはとても商売熱心だった。私は、インド風チーズを焼いたものかあげたものを頼んで、タイガー・ビールを一杯やろうともくろんでいたのだが、あんちゃんが立て続けにいろいろなものを勧めるものだから、まごしているうちに随分とたくさん注文してしまって、食べきれないほどの皿を抱えることになってしまった。しかも、食べ始めると味も私の好みではなかったから、私は異国の夜空を見上げてずいぶんとしょんぼりしたのである。そして、これだけ競争の激しそうなところで、無気力な客対応をしながらも生き残れるのであれば、それは料理がよいという証拠だと感じ取らなければならならなかったかと反省までしてみたが、 仮にそのようなところで食べて味も気に入らなかったら二重にしょんぼりしなくてはならなかったろうと思いなおし、残りの皿に取りかかったのであった。


2008年6月某日

同僚のNがしょげていた。メタボ判定をされたそうである。 私の検診はまだ先なのだが、他人ごとではない。独自の調査によれば私の腹回りも臨界値に近いからだ。

しかし、身長に依存せずに、一律85センチが基準というのには、どうしても納得できない。 一番自然に考えれば、身体は相似形になるべきものではなかろうか。すなわち、身長と腹回りの比率に関して 適性値が決まっているというのならまだわかるのである。 たとえば、私の身長(184センチ)に対して85センチが限界だとすれば、その比率は約2.1倍となる。 この比率を身長170センチの人に当てはめると 腹回りは78センチ、160センチだと73センチ、150センチだと69センチになる。 これはかなり細くないのか。でもこれらの人は、85センチまでの余裕という幸運を与えられているわけである。

住みにくい世の中になったものだ

もっとも、このメタボの話は、海外で食事をしている時など、 話題に困ったときに重宝する。 あまりに砕けた下品な話題は避けたいし、一方脂っこい政治経済の話題などだとせっかくの食事がまずくなるから、メタボくらいがちょうどよいのである。 なぜかというと、今回のメタボ検診というのは、潜在的に成人病の原因になるものに課金するというものであり、腹周りを測定するということ自体が本質ではなく、メタボ判定された人に対してペナルティが課されるというところがみそになっているからである。要因に課金するという言葉だけでも経済学者の心をくすぐるに十分であるのに、さらにそれを国レベルで促進しようという今回の大実験に対しては、たいていの経済学者はその成り行きに非常に興味を持つのである。 ただ、やはり一律85センチ基準に関しては、一様に「?」と反応するようだ。


2008年5月某日

生物の教科書をみると、「群体」をなす動物という項目があり、それの例として「ホヤ」があって、 試験のために記憶したことがある。こいつが食いものであるということはずっと後になって知った。 初めて食べたのは10年くらい前のことではないかと思う。

4月に韓国にいったときに、久しぶりにホヤを食べた。もっとも、前もって食べようと思っていたのではなくて、 海鮮物を陳列してその場でさばいて食べさせる屋台の店がいくつもあるところで、 たまたま教科書で見たその得体のしれない姿が目についたからである。 店のおばちゃんとは言葉が通じなくて苦労したが、 その店で既にハマグリのようなものを食べていた、 明らかにかなり酔っぱらったおじさん2人が身振り手振りで説明してくれて、 ホヤは1万ウォン、焼酎3000ウォンで食べられるということが判明、 こうなると行きがかり上食べないわけにもいかない。(注) 値段はこんなものかと思ったし、 まったく食べられないこともあるまいとも思ったので、そこで食べることにした。

まあこれは珍味に属するもので、しいていえば海の味であろうか。 好きな味だが、たくさん食べるものではない。 ところがホヤ一匹(群体だからこの表現はいかがなものかと思うが)はかなりな分量になる。 初めの数切れまでは楽しんだが、そのうちにもてあますようになった。

そうしたら、酔っていたオジサンたちが寄ってきて、 何やら話しかけてくる。 このような局面には過去に何度も直面したから、これは想定内。 こちらもその店に至るまでに実はすでにずいぶん酒が入っていたから、 韓国語での問いかけには堂々と日本語で反応する。 それでなんとなく会話風なものができあがるものである。 ただ、このおじさんたちが自分たちの食べている生もの系のものを持ってきてすすめるには、 ホヤさえももてあましていたので少々参った。 あからさまに残すのも気が引けるからがんばって全部食べたので、 そのあと数日間この種の食べ物が生み出す風味が口の中に残った。

そしてつい先日、仙台の居酒屋でホヤを食べた。 無類のホヤ好きというわけではないのだが、あると食べたくなる。 しかもこの店でのホヤはたいそう安かった。 食べてみると、日本酒によくあい、うまかった。 会話をする必要もなかったためか、ゆっくりと楽しめた。 もっとも、今回のホヤは日本サイズの皿にかわいらしく入るだけの分量だったから、 もう一皿注文したい欲求に駆られたが、 もう少し食べたいというくらいが珍味にはちょうど良かろうと思い自重した。 今度行ったらまた食べたい。

(注)当時のレートで1000ウォンが120円くらい。

2008年4月某日

ダイヤモンド社の無料広報誌に連載していた「コトバの戦略思考」が、 明治大学の国際日本学部というところの入試問題に使用された。 「わらしべ長者」という題で書いた回が、連載時の全文そのままで問題文につかわれたようだ。(注)

入試問題に使われるのは、宣伝にもなるし、あとで入試問題集に収録されたときにわずかながらでも 著作権料がはいってくるので悪くはない。一方で、使うのだったら前もって相談してほしいと思うこともある。 特にこの入試問題では連載時そのままの文章がつかわれていて、問題をゆっくり 読み直すと自分にとって不満なところがいくつかあって、 受験生に入試問題として読んでもらうことがわかっているのだったら、 もう少し言葉を選んで手を入れたかったかなという気がしたからである。

今回は特に言葉を補いたかったという気持ちが強い。それは 作者の意図を問うという選択問題の答えが、はっきりとはわからなかったからである。 それすなわち文章が十分にできておらず、出題者にも筆者の意図が伝わらなかったという証拠であろう。 もとより、入試問題だから出題者と相談するなど、まさに出来ない相談ではあるのだが。 一方で、問題の出されかたを見ていると、自分の文章にある欠陥も見えてくるような気もするから、 どのような形であれ入試でつかわれることは、やはりありがたいことと思うべきなのだろう。

結局のところ、使われて本当に困るような文章は、どんな形態であれ活字にするな ということだ。いいかえれば、自信のないものを、堂々と公表しているお前が悪いということになろうか。 ささやかな言い訳をすると、書いていた時はそれでいいと思っていたものが、 のちになってもう少し何とかできるのではないかと思うようになってくるということは、あってもよかろうと思う。 特に連載の場合、ほかの項目を書いているうちに、前の部分が気に入らなくなることは頻繁にあるわけだから。 (それゆえ、ダイヤモンド・オンラインとも、バックナンバー掲載は6カ月分までという約束をしている。)

(注)その後、恵泉女学園大学の入試にも使われたことが判明。ネットに公開されているものは使いやすいのだろうか。

2008年3月某日

インドの首都デリーの道路には、雑多な動物がひしめいている。 旧市街の道では、牛を見ることが珍しくないし、さらに路地まで踏み込むと ヤギやヒツジまでいる。 レストランの裏などのぞくと、残飯をあさる動物がいて、犬とおもいきや、これが山羊であったりする。 こいつらはそもそも雑食なのだろうか。 近代的に整備された幅の広い道路は、速い速度で行き来する車が中心的な存在だが、 それにしても歩道には犬が寝ているし、道の中央分離帯に目を移せば悠々と寝そべる牛を目撃できることも多い。

日本では、「マトン」で羊の肉、「ラム」は子羊の肉をさす。 羊の肉には独特の香りがあり、これは成長するにつれて強くなるらしい。 なので、ラムのほうが香りが穏やかでしかもより柔らかいから、 しゃれた料理に使われるのはラム肉が中心になる。 そういう知識があったから、 インドでイスラム系レストランに行ったとき、ラムとマトンが両方ともメニューに書かれていたので、 これはより安い羊のマトンを使ったB級料理もだすという意味かと思ったら、 ここでのマトンは山羊の肉のことだそうだ。ラムの料理もあれば、 それと同じように調理した山羊の料理もあるというわけだ

山羊よりはラムのほうが人気があるとのことだが、自分には山羊のほうが珍しいから山羊のほうを試してみた。 注文するときには、さきほどこのレストランの裏で残飯をあさっていた動物の表情が頭をよぎり、 あまり気持ちの良いものではない。 しかしいざ食べてみるとなかなかおつな味で、 香辛料の効かせ方などなるほどインドの知恵である。 食べ始めるとしばらく前に見た動物のことは忘れてしまい、 ついいくらでも食べられてしまう。 つくづく人間とは勝手な生き物だと思う。


2008年2月某日

今年はよく雪が降った。雪が降ると、 相国寺で彼岸花が咲いていた あたりは、こんな感じになる。

しかし、雪がやむと地面を覆っていた雪もたちどころに消えてなくなり、二日と持たない。やはり暖かいのだ。 京都に来て5回目の冬だが、寒いと思ったことがない。

京都は一年中観光シーズンといってよいと思うが、 正月を過ぎてから梅が咲き始める2月下旬までの期間は、観光客も少なく比較的静かな時期である。 京都をじっくり楽しむにはこの時期がよい。私の好きな下鴨神社は、四季それぞれの魅力を持った場所であるが、 冬の朝、古代の森を冷たく張りつめた空気が満たしている感じは特に良い。 参道の奥にたたずむ社も、冬は一層神聖なものに見えるものだ。 鳥居に向って人気のなくしずかな参道を歩く幸運に恵まれると、 この神聖な空気を独り占めしているような気分になれる。


2008年1月某日

こんな夢を見た。

ここはどこの町だろうか。椅子に座って上をみあげると、さむざむとした灰色の空がひろがっている。 長い間辛抱して、やっと暖かくなってきたと思ったら、また急に寒くなったようだ。 暖かい服を仕舞って身軽になっていたのだが、仕方がないから家に帰ったらまた取り出すことにしよう。 まあ、仕切り直しというところかと思っていたら、 周りの人がせっかく伸び始めた木を切って、せっせと薪にしてしまっている。 さっきから、どうもあたりがきな臭いと思っていたが、どうやら路上でたき火をしているからだ。 たき火は各所で行われているようで、空が灰色にみえるのは、たき火のけむりも原因になっているようだ。 そんなものではたいして暖かくはならない、 さきにもっと伸ばすことを考えろといいたいが、声が出ない。 なかには伸ばそうとがんばっている人もいるが、この人たちはあせってしまって新芽を引っ張っている。

たくさんの人が群がるものだから、木が揺れている。 これは何とかしなければと思って考えていたら、どうも自分までもぐらぐらと揺れる。 不審に思って足元を見ると、座っている椅子の足を切ろうとしているやつがいるではないか。 こいつはいよいよ安閑としてはいられないぞと思ったところで、目が覚めた。