1997年の独り言(後半)

 


1997年12月某日

金融システム不安について最近どうも的外れな議論が多いようです。「公的資金導入の前に金融機関に はたらく人の給与を下げよ」なんて意見が、結構みんなの共感を呼んでしまったりするなど、 いちいち指摘はしませんが、前にも書いたように、経済教育の重要さを痛感するこのごろです。

問題点はいろいろあるのでしょうし、わたしにもどこをどうやればよいのかはわかりません。今年最後の独り言は、あまり議論されない切り口を一つ。 会計監査をした監査法人は何を見ていたのかということです。

株式、債権に投資するということは、その企業の将来を買うわけですから、 企業の財務状況を把握するのは当然重要ですが、このためには細かい事情に通じない 一般投資家にとっては公表されるバランスシートがほとんど唯一といっていい資料になります。 したがってそれをチェックする会計監査法人の役割は当然重要です。 大蔵省の監督責任云々もありますが、金融機関の帳簿の一枚一枚までチェックするわけにはいかないですから、 大蔵省にしても企業の財務状況を把握し公表する会計監査法人の報告はかなり信用せざるを得ないでしょう。一方で、今年破綻、倒産した大企業のなかで、会計検査で要注意の信号が出ていたのは 東海興業だけだという話です。アメリカの会計制度では、企業が危ないかどうかの判断を公認会計士がするように義務づけていますが、日本ではそうでありませんから、 それが理由といえばそれまでですが、 エコノミスト誌や、フィナンシャルタイムスが、 日本の会計制度のずさんさを投資意欲の減退を呼び起こしていると 批判するのも当然と言えます。会計のずさんさが、バランスシートの不透明性、 さらには信頼の低下を招き、またいっそうの投資意欲を削ぐ結果になっているといえましょう。 投資家の保護をうたうのなら、政府大蔵省はこのようなずさんな会計検査をした会計法人こそまず どんどん処罰すべきでしょう。

日本経済新聞によると、日本の公認会計士協会もやっと今年の11月、 アメリカ並みに企業の存続可能性を決算書に書くことを義務づけるよう法令を改正すべきだとする提言を 公表しようとしたら、それを差し止めたのは何と大蔵省だったそうです。 こうなると何がなんだかわからないですね。存続に問題あり、 などと記述が入ったために株主に見放され、その結果株価が急落したりしたら企業に訴えかねられない、というのが理由らしいですが、 企業はいったい誰のものなのでしょう。


1997年12月某日

先日ある本に、「うまく講義をするためのポイントは、いかに余計なことを話さないようにするか という点にある」とあったのに、いたく共感してしまいました。この商売を何年もやっている者と、 それを初めて聞く者の間には当然認識に大きなギャップがあるので、 教官がこれはと思って話し手も学生にはちんぷんかんぷんということが 起こるわけで、これが「余計なこと」なわけです。

わたしはいい授業をしたいという欲求が強い割にそれが空回りする傾向がつよくて、 ペンシルバニア大学で教えていたときには学生からの評価は、「熱意は買うけど 何を言っているのかよくわからない」というものが圧倒的で、 4段階評価で2あたりを低迷していました。(筑波では学生はほとんど反応しないので分かりませんが。) しかし学生の評価はともすると感情的な投票になって、授業に対する要求、非難といっても 感情的なものばかりで、 どこをどうすればよいという建設的な情報はいっさい得られないというのがわたしの印象でしたから、 その一方で、毎年教える技術のトレーニングをしてもらっていたのです。これは、授業の様子をビデオでとって、 後で教える技術の専門家と一緒にそれを見て、いろいろアドバイスをもらうというもので、 これは非常に役立ちました。

ここでおもしろいのは、その専門家たちに言わせると、わたしの授業は悪くないというのです。 むしろ、彼らが聞いていて興味深い内容である、というのです。ところが、これこそがわたしの授業の問題点では ないかというのです。つまり、わたしが授業である程度経験をつんだ人々に 興味深いと思われることを話しすぎているのがまさに問題で、言い換えれば、 まったく予備知識がない人には「余計なこと」を話しすぎているので、 そういう人たちにとっては焦点がぼけてしまって、 「何を言っているのかわからない」授業とみえてしまうのではないか。先日香川大学で、学部生向けに1こまだけ 金融に講義をしたのですが、教官の方々からはわかりやすいよい講義という (お世辞だったのかもしれませんが)感想をいただいたのですが、果たしてメインゲストである 学生さんたちにはどうだったのか。 これも反応が皆無だったので分かりませんが、わたしにはこういう経緯があるものですから、 かえって不安になりました。

相手が何を知っているか、何を理解できるのかを常に考えて授業をすること。 相手に何を知ってほしいかを考えるほうが先に立ちすぎていることを認識せよ。 これが教える技術のトレーニングで毎回受ける コメントでした。わかっていても 余計なことを話さないというのは、難しいものです。前に書いた相対性効果(1997年6月参照)により、ほうっておいても 年々私自身余計なことを話す傾向が出てくるわけですから。


1997年11月某日

日本の金融システム不安もいよいよクライマックスにむかっているようです。山一も、ムーディーズの格下げがあったらとたんにいってしまいましたね。 ほかにもまだまだ基盤が脆弱な銀行・証券・保険会社はあるようです。(注1) もはや公的資金の導入しか選択余地はありません。銀行債、株を一般会計から買いますかね。財投でやったら問題が一層ややこしくなるかもしれません。

ところで山一証券に関する報道を見て思うんですが、「投資家保護」と「預金あるいは債権者救済」がごっちゃになってしまっているようです。 このへんは来年の経済学原論で取り上げましょう。 山一の投信を預金と勘違いしているような発言も多く見られました。 こんなんだと狼狽して解約、結果的に持ち株・債券を売ってしまう人で市場があふれそうです。(注2)(してみるとむしろ買い時か?)。

誰に責任があるか論争が、最近はやっていますが、わたしはこんなふうに考えています。 いちばんの元凶は、金融システム(市場)がどういうルールで機能しているのかについて、一般国民が教育されていないことではないでしょうか。 金融市場の健全な発展が飯の種である金融機関が、本来いわれなくてもこの辺はやりそうなものです。金曜8時「アムロと学ぼう投資信託」、 なんてね。小室(名前なんだっけ)さんあたりが、のりのいいうたつくってね。XYZ大学ABC教授なんて出てきてぼそぼそ話してたってだめです。こんなのは明るくいかなくちゃ。

経済学担当の教官として責任を感じるこのごろです。



(注1)その後安田信託もS&P;に格下げされました。

(注2)やっぱり下がったね。 


1997年10月某日

ある調査によると、卒業生評価による大学のランキングにおいて、わが筑波社会工学類は調査13校中、授業内容と授業構成で1位、教員に対する信頼は5位。 某通信教育会社によれば、5段階総合評価は最高の5。ところが、企業の持つ大学に対する好感度は、 筑波社会工学類は調査13校中13位(1位慶応、2位京大、3位東大、11位北大、12 位名古屋)。公務員I種合格は13大学中10位となり、偏差値による難易度では社会工学類は61と13大学中最下位だそうです。 もっともそのわりには学生の就職はよいらしいです。

わたしにとって一つ気になるのが、受験案内誌をめくってみると、社会工学系に社会経済部門があることが、ほとんど書かれていないこと。蛍雪時代の特集号によれば、 経済系学部として、本学の第1群社会学類は書いてあるけれども、社会工学類はそこにはありません。(そういえば、わたしへの郵便物が、社会学系に宛ててあることもあるなあ)

わたしの思うところ、大きな原因は、経済学がなぜか文系科目と決め付けられていること。すなわち高校生がすでに1,2年の段階で文系理系に分かれてしまうと、経済は文系になるので、 3年生の段階で社会工学類に経済があると分かっても、数学を試験科目に選ぶことは難しい。 というより、受験生の心理からすれば、まずありえないことのようにおもえます。

しからばわれわれは文科系に転身すべきでしょうか?私の意見はNOです。社工のカリキュラムでは 数学に拒否反応を示すような学生をencourage しても意味がないし、数学を要求する経済学専攻として、堂々としているべ きかと考えます。実際、高校生がすでに1,2年の段階で文系理系に分かれている、そして各専攻が、文系か理系かのいずれかに属するように分けられている、しかも経済学が「文系」 に属している現状がナンセンスというべきでしょう。大学によっては、経済学が理系に属しているということがもっとあっていいのではないでしょうか。

ノーベル経済学賞受賞者の顔ぶれを見てください。現代の経済学は、数学、統計学的理解なしには成り立ちません。 学者の養成が大学教育の目的ではない?わたしもそう思います。では日本経済新聞を開いて見て下さい。 数字やグラフが多いですよね、特に真ん中へんは。こういうのがわかって、 こんな言葉で議論できるようになることが経済学教育の目的とすれば、 やはりこういう数字に強い人のほうが、学生として向いているともいえるのではないでしょうか。 少なくとも、経済学が文系の科目でなければならない理由は見当たりません。

それにしても、受験雑誌の経済学部一覧に、名前ぐらい載せてほしいですね。


1997年10月某日

 

飲み屋の「お通し」というのは誰が始めたものだろうか。やすさを売り物にしている居酒屋でも、そうやすくもないところでも、酒を飲ませることが商売の店では、席につくやこのお通しというものを持ってこられてしまう。しかもこれは無料ではなく、これで半ば強制的に金を持っていくわけだから始末におえない。それ自体が気の利いた一品のときはまだ許せるが、どうもそうでないときが多いので困る。どうせ座っただけで金を取られるのだから、行く以上は腰を据えて、と考えることになるから、これはどうも健康にもよくない悪しき商習慣で、通産省あたりが指導してしかるべきと思うのだが、どうもその様子は見られない。いつでも腰を据えて飲む方々にはそれほど気にならないものかもしれないが、私のようにふらりとビールを一杯だけ飲んで帰る、というのが趣味の人間にはこまる。

日本ではそんな呑み方はできないものだとあきらめていたのだが、東京に行くとこれができる店が随分目に付くようになった。ちょっとアイリッシュパブの雰囲気まである店までできた。お通しという、私にはどう考えても非合法である手段を放棄して、客にほしいものだけを注文させる心意気がよく、酒飲みの健康にも配慮した態度は厚生省から表彰ものだが、その気配はついぞ見られないから、せめて私はこんな店を見つけるたびに入って一杯やることにしている。おかげで東京に行った帰りは、八重洲口のつくば行きのバス乗り場がいつも遠くなる。

そんな習慣が身についてきたこのごろだが、よく考えると屋台のおでんやサンに行くと、お通しなんという野暮なものはないはずだ。つくばにはそんなおつなものは見当たらないのですっかり忘れていた先月のとある日曜日、五反田駅の東口に降りて、都営線の入り口とは反対のほうに、一軒の屋台を見つけた。雨がしょぼしょぼ降り出して少し肌寒い夜だったが、中をそっと覗くと赤いウエストバックが妙に印象的なおやじがネクタイをした若い兄ちゃんにビールを出している。この兄ちゃんが手招きをするので、むしろに囲まれたやその屋台でいっぱいやることにした。

むしろの中に入ってみると、こちら側の影のところでもう一人若い男が呑んでいた。酒と、おでんを少しつまんでもらって、それがほとんどなくなって腰を上げかけたところに、向こう側からくたびれた黒いセータの上にやはり黒っぽいジャンパーを着て、野球帽をかぶった小柄なおっさんがすいっとはいってきた。するとネクタイの兄ちゃんとおやじが、先生、久しぶりと声をかける。何の先生だかさっぱりわからなかったが、この先生が今日はちょっと金を拾ってきちゃったから、皆さん今日は私のおごりです。どんどんやってくださいという。前歯が二本かけていて、日焼けした赤茶けた顔に白いものが混じった無精ひげが目立つ。パチンコか競輪かなんかで一発とってきたのか、それにしては祝杯を屋台のおでん屋というのは変なようだが、そういうものなのだろうか。ネクタイが金の出所を聞いてもそこはのらりくらりと答えない。そのうちにみんなの商売の話になって、今度は私のほうがのらりくらりと答えていると、ネクタイの兄ちゃんがその日仕事をしてきたというどこやらのストリップ小屋の裏舞台の話を始め、これがたいそう面白いものだからみんなそっちにすっかり引き付けられてしまった。

どうもこの兄ちゃん、話の具合からしてそういった商売に女を斡旋するような商売をしているらしいが、つやのいい健康そうな顔でネクタイ締めて携帯ぶら下げているその姿は赤坂を闊歩する商社マンのような印象を与える。ストリップ小屋の話の後は、先生がそこの…サロンの客引きをしていたころの話を、これまた実例をふんだんに使った詳細なちょっとここでは書けない描写を加えて語り、するとネクタイが到底合法とは思えないその種の商売のうら話をちらちら話したりするという具合で、わたしはそこから20メートルも離れてない交番が気になって仕方がなかったせいか、その内容については、とてもこくがあって面白かったという以外には記憶がない。

そのうちににぎやかな中年の男1人と女2人が、どういう筋書きかは分からないがいっしょにやってきて、先生とネクタイのかけあいも腰が折れた格好になったので、挨拶して席を立った。おやじが酒は先生持ちだから、全部で900円というので、先生に礼を言って都営線の駅に向かったとき、1杯だけのつもりだったと思い出した。まあこんなこともあるでしょう。


1997年10月某日

 

先日M井さんが、ホームページの色付けってどうやるの、と聞いてきたので、わたしのページのタグをコピーしたらと答えておいたところ、今日見てみたらわたしのと同じになっていました。内容もいつのまにか増えてましたので、かってにリンクをはっておきましたので、皆さんどうぞ。

M井研究室のページでバックギャモンに関する勝率云々がありますが、最近ちょっと均衡しているものの、昔からの合計でいえば(ペンシルバニア大にいる時代からやってましたから、相当数をこなしているはずです)これは彼のほうが勝っているんじゃないかなー。何しろ彼は研究熱心で、自宅で一人でさいころをころころ振って勉強しているらしい。

ただわれわれの悩みは、お互いほかの人とはほとんど対戦機会がないことですね。実は二人ともとっても弱いのではないか?問題:この可能性について、進化論的ゲームの観点から考察せよ。

M井研究室のページへの情報:ペン大時代の話ですが、M井さんが酒の席とはいえ同僚(とても著名な人)にむかって、あなたはどうして同じような内容の論文ばかりいつも書くのか、といったときには、その人の隣に座っていたわたしは背筋に冷たいものが走りました。しかし泥酔しつつ英語でアカデミックな議論を始めることができる人はそうはいませんから、やはり彼は大物ですねー。それから「ひも」発言ですが、これは今もそうなんじゃないのかな。


1997年10月某日

 

涼しくなりました。窓を開けると外の風が心地よいです。わたしの研究室は東南向きで、夏の朝はちょっと暑いですが、この時期から冬にかけては快適です。もっとも去年はオーストラリアにいたので、秋に日本にいるのは実に十年ぶりです。いいもんですね。

学園祭のシーズンになりましたが、こちらのほうも10年ぶりとなるわけです。学園祭というと、やきそば屋やおでん屋が大学構内いたるところに並んで、もようしものといえば、大学でするにしてはアカデミックという言葉からはかけ離れたものばかりという印象をお持ちの方が多いのではないでしょうか。わたしが学生のころは、「恋人リサーチ」というのがはやっていましたが、今もあるのですかね。我が筑波大学の学園祭といえば、ホームページを見る限りではやはり期待に違わずそのようなものが中心のようです。

こんな幼稚な学園祭をしても仕方がない、と考えられる方もいらっしゃるでしょうが、わたしはこの似たような露店のようなものがたくさん出てくるところこそ、教育的な価値が非常に高いと考えています。この競争のなかでは、何か特色を出さないとせっかく用意したおでんやさんも大赤字となりかねないわけですから、これほど手軽かつ真剣に学べる経済学の実習講義はとてもほかではできません。単位をあげてもいいくらいですよね。

ただ願わくば、何か新しい(ベンチャー露店?)のようなものが活躍するのを見たいものです。

(後日記)学園祭の後正露丸を飲みつつ読める:たこ焼の中身はどろり競争市場



1997年7月某日

 

暑いです。

 

私のオフィスは、広さといい、筑波の中心部が見渡せるその眺めといい、とても気に入っているのですが、一つ許せないのが空調設備。この暑さの中ですが、朝は9時ころまで冷房が入らず、夕方も4時くらいで終わってしまいます。夏本番になるともう少し運転時間が延びますが、それでも朝8時からで夕方6時くらいで終わってしまいます。ここは11階なので、最上階の12階に比べればまだ状況はマシですが、子供のころからやわに育った現代人にとっては、とても頭を使って生産的なことのできる環境ではありません。それでこんな雑文を書き始めてしまいました。

私は元来朝頭の回転が良くなるほうで、夏の日の長い時分には朝5時から6時の間に目が覚めるので、この暑さ対策として、できるだけ早くオフィスにやってくることにしました。今朝7時半にきたらなかなか涼しく、これはと思って机に向かったのですが、8時半には汗が吹き出す状態です。先ほど冷房が入ったので、少しずつ温度が下がり始めてはいるようですが。

ただでさえ、オフィスになかなかあらわれないと批判されることの多い大学教官ですが、これではいよいよオフィスにくるのが嫌になります。家で仕事のできる人は、その方がはかどるでしょうね。ちなみに私はほとんど毎日きていて、オフィスアワー中にやってきた学生とも(ほとんどこないけど)雑談食事などいとはない優等生なのですが、冷房が切れるとあたまにきてさっさと帰ってしまいます。本当は週末もきたいのですがね。

快適にすれば人がやってくるというのは、どうかと思われる方もいるでしょう。どうせやってこない教官の部屋を税金つかって涼しくしても仕方がないではないか、と思われる方も。私もそれには同感です。いくら涼しくしてもやってこない人はやってこないのでしょうから、省エネのご時世、無駄づかいをやめるのはとうぜんです。ところが興味深いのは、われわれの建物では、冷房が入るといっても、各部屋のスイッチを入れないと作動しないという結構な作りになっているのです。つまり、冷房が入る、といったのは、冷房の元?が作動しているということで、私の部屋も、私がきてボタンを押さないことには、いくらもとが動いていても涼しくはならないのです。しかも、各部屋でのつけっぱなしを妨げるために、もとを操作すればすべての部屋のスイッチを自動的に切ることができるます。

しかるに冷房を入れないというのはどういうことか?このような深遠な哲学的思考をするには大分涼しくなってきました。仕事に戻ります。


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