1997年の独り言(前半)

 

 



1997年6月某日 

 

確か日本経済新聞だと思いますが、最近の大学生は与えられることに慣れてしまって、自分で学ぶ意欲が見られない、という趣旨のことが書いてありました。さらには最近ではシラバスなどで授業内容、課題の指示などを逐一しないと学生がついてこないなどと書いてあったと記憶します。

はじめの部分については、おそらく事実の認識としては当たっているのでしょうが、どうも記事ではそれが若者気質の変化、ということに帰されているようなのが気になりました。私も(自称)若者世代に属するものですが、このような分析にはちょっと納得できません。思うに、若者の質はそう変化してきたのではなくて、社会が豊かになり大学生の人口が増えて、昔ならば大学には縁が遠かったかもしれない人々も大学に集うようになったのが大きな原因ではないでしょうか。つまり、大学の定員が少なく、大学に行くということの(機会)費用が大きかったころは、ほうっておいても自ずから問題意識を持っている学生が大学に集い、教官は自分の興味について語っていれば、自然にそうした学生の心を引き付けることができたのではないでしょうか。教える側にとっては、学生の向学心で満ちている教室ほど仕事のしやすく、また充実感の得やすい環境はありませんが、これは現在の学制の構造がかわらないかぎり、望むべからぬところでしょう。現在の大学教育で、学生の向学心を当てにして講義をおこなうということ自体に無理があるわけです。大学の役割は変わりました。

こう考えると、学生に文句を言う前に、教官側は最低でも授業が何を目標にしているか、そしてその講義によって、具体的に自分が何をえられるのか、そしてその知識の習熟のためには何をすべきなのかぐらいは、はっきりさせておく必要があるでしょう。この辺をどうやって組み立てて授業をするのは結構大変で、準備だけで時間のかかることです。私は努力の割に結果が出ずに悩んでいるのですが。(ここで一瞬疑問を持った君、すぐにわたしの研究室まできなさい)大学教官受難の時代です。学生の向学心まで何とかしなければいけないわけですから。もっと給料があがって、授業負担が減ってしかるべしですよね。

より良い大学環境のためには、入試の方式を変えればすむことと考えていますが、このあたり私の意見は過激なので、ここで書くのは控えておきましょう。

後日記。これに関連した現象で相対性効果というのがあります。教官は毎年歳をかせねていくのに学生の年齢は一定であるので、教官には学生はどんどん子供っぽくなっていくように見えるという効果で、これは非常に科学的ですね。これで教官が年々学生の幼稚化をなぜ憂うかという問題の大半が説明できるという方もいるようです。


1997年6月某日

20日に慶応大学で、研究発表をしてきました。当日は台風が関東地方を直撃、朝から雨と風がひどくて、東京行きのバスに乗るのがためらわれました。よっぽど電話をかけてキャンセルしようかとおもったのですが、電話番号を控えていなかったので果たせず、予想どうり小菅付近で大渋滞に巻き込まれつつ、ぬれねずみになって3時少し前に現地に到着しました。

聴衆には、わざわざ神戸大学からきてくださった方々もいて、キャンセルしていたら、恥をかくところでした。こちらも気合いが入りました。

ところで、慶応の経済学部の建物にある受付のおばさんはいつも誰にでもあのような横柄な応対をするのでしょうか。豪雨の中わざわざ筑波からやってきて、セミナー担当者の部屋はどこにあるのか訪ねているのに対していきなり「自分で前もってしらべておきなさい。予約をとっていないのなら入らないで」、はどうですかね。雨が降ってなければそのまま帰っているところでした。

 

 


1997年6月某日 

クラスの学生がこんなことをメールで送ってきました。

「僕は読書を始めようと思っているのですがなにをよんだらいいかわかりません。先生のおすすめなど紹介していただけたら幸いです。人生を変えるような本に巡り合いたい。」

向学心が芽生えてますね。私自身、このような職業にありながら恥ずかしいことですが、大学生の時代はあまり授業にはいかなかったほうで、ひどいのになると、一回も授業にいかずに試験にいったということが、しかも一度ならずあります。ただ、本は読みました。教室にいかずに、一日中図書館ですごしたことは何度もあります(冷房が効いていたというのも理由の一つでしたが)。
 
はじめは哲学に興味を持って、デカルト、ヘーゲル、マルクス、ラッセル、ポパーなど、図書館の哲学のコーナーにあった本を訳の分からないまま端のほうから読んでいました。ラッセルの、 「西洋哲学史」 は気に入って何度か読みました。マルクスの資本論は何度か挑戦しましたが、いつでも挫折しました。ところが留学中に英訳を読むはめになったら、なぜか和訳よりも読みやすかった記憶があります。ケインズの 一般理論 はいまだに和訳も、原文の英文もわかりません。
 
何から始めるか、といわれると、私は伝記、自伝のたぐいを薦めます。今私も読んでいるのですが、「私の履歴書」 というシリーズがあって、これは元々日本経済新聞での連載ですが、どれも良く書けていて面白いです。筑波の中央図書館に全部そろっています。
 
あと思いつくところでは、湯川秀樹の自伝 「旅人」(だとおもった)、柴田敬の自伝 「経済学と歩んで80年」 など何度も読みましたね。講談社新書で出ている、ウィトゲンシュタインの伝記は、行き詰まるといつでも読み返す本です。

 


1997年6月某日
ところで、私の名前はいつになったら社会工学類などのホームページにのるのですかね。かれこれ1年近く筑波にいるのですが、いまだにどこの教官紹介を見ても、自分の名前がないのは気持ちが悪いなあ。
(後日記)書いてみるもんですね。今では載っていますよ。


1997年6月3日
先週の土曜日に、大学のゼミの同窓会がありました。 長らく日本を離れていたので、実は卒業してから初めて出席したのです。

私は4期生になります。同期生は12名、いくまですっかり忘れていたのですが、私はゼミ幹事でした。 ゼミ活動に関しては手抜きが多く、 当時、仕事の振り分け以外にゼミ幹は仕事をしない、という不文律まで作ったのですが、その後守られなかったようです。 三商大ゼミ(註1)のときには、4年次には2日目ぬけだし六甲山に遊びに行き(註2)、 大学院生のときは参加すらしなかったことを、思い出させられました。 ゼミ紹介のときに問題発言をして、翌年4人しか集まらなかったのも私の責任(らしい)です。 これも忘れてました。

もっとも1人くらいの問題ゼミ幹には関わりなく、その後ゼミは順調に発展を続け、 今やOB名簿には150名以上、優良ゼミとして週刊誌にも載ったらしいです。 女性も20名を超えて入っています。私の2代あとまでは女性の参加者はいませんでしたから、隔世の感があります。 今度のゼミ幹は女性で岡本さんです。 青田買の企業の方、今すぐコンタクトしましょう。

私の上には3代しかありませんから、会にきたなかでは私は立派なおじさんでした。まあこれはそれでなくてもそうなのですが。 奇妙なのは、普段学生に接しているときはこんなことを感じたことはなかったのに、現役の学生や、またはそれに近い人々と話した後に、わたしは 年を取ったのだと感じたことです。 少年老いやすく、の気分にのしかかられて、それ以来少々ブルーな気分です。 あした誕生日ということもそれに拍車をかけています。 あーさびし。


(註1)一橋大学、神戸大学、大阪市立大学の学生主催の研究発表会。今も続いているのかは聞きそびれました。 (註2)4,5名で抜け出した記憶がありますが、さだかではありません。


1997年5月某日
我が学類では、コンピューター教育のあり方に関して議論がたたかわされています。 伝統的に(?)プログラミングの教育が中心になっていましたが(2種類のプログラミング言語 - PascalとCASL - をすることになっているらしい)、コンピュータを取り巻く社会情勢もずいぶん変わってきましたので、 ここいらで少し考え直してもいいんではないか、ということです。

以下つれずれと私個人の意見を書いておきます。

私はプログラミングに関しては、 ビジュアルベーシックのマクロが少しだけ作れる、というぐらいの技量しかありませんが、 この商売ではまあ不自由なくコンピュータが使える方だといっていいと思います。 ですが、「プログラミング」といわれるとやはり寒気がします。というのも、大学時代にちょっとかじった (授業にははじめの2回ほどしかいかなかったが)時、なーんにもわからなかったので。難しいですよね。

しかるになぜ今はそこそこ使えるかというと、留学中にワープロを使わざるをえなくなり、 就職してからは表計算で成績管理をするはめになり、 共同論文を書く仲間たちが世界中に散らばってしまったので、電子メールを使わざるをえなくなったのが、 いざこれらを使い出すとなかなか便利なものだときずき、 もうちょっとマクロなんかが作れると仕事が軽快にできるな という欲求からしだいに覚えていったからです。

この経験から、大多数の学生にとってはまずコンピュータでどんな事ができるか、 何と自分の世界が広がることか、となっとくしたあとでないと、とてもプログラミングなど学ぶ気が しないのではないかという気がします。まずなんとか使えるようになることが大切だと思います。 はじめはワープロ、スプレッ ドシートなどのアプリケーション、それに電子メールあたりから、 しくみは度外視してまずいろいろいじらせて、ゆるゆると教育されたほうが、 学生のコンピュータに関 する興味も増し、長期的にはプログラミングに対する興味も増すのではないでしょうか。(4月の独り言参照) 実際、私のクラスの某学生は、e-mailのことについての講義のあとに 「何も知らない私達に、パソコンを教えるのではなく、ただ何かわけの解らないことばかり言っていて はっきり言ってむかつく講義だった」というコメントを、私にe-mailで送ってきました。(^^) でもその気持ち、解ります。

ワープロやら表計算だなんていちいち大学で教えるようなことでもない、という意見もありますが、 これらはあくまで次の段階を学ばせるための例くらいに考えて、教えてあげていいのではないかと思います。 もっとも、今時表計算ソフトが使いこなせれば、かなり複雑なことができますよね。少なくとも、私のもとで卒業研究をしたい人は それで十分過ぎるくらいです。



1997年4月某日
新学期が始まりました。

今年は、1年生のクラス担任というのを仰せつかっています。 筑波では、フレッシュマンセミナーと称して、毎週担任が、何がしかの講義をするのです。 担任になるということがわかってから、いろいろな人に、果たして何をしたら良いのか聞きましたが、どうも実際はソフトボールをやったりして親睦を深める、というパターンが多いようです。 それはそれで有意義なのですが、教官主導で毎週ソフトボールというのも何かアカデミックではないような気がしたので、こんな計画を立てました。
まず、電子メールの使い方を教える(先週やりました)。電子メールの講習後は、特に必要が無い限り教室には集まらない。こちらから指示があるまで、毎週私宛に電子メールを出すこと。 内容は大学生活一般の話題から、個人的なことまで、何でも構わない。書くことがなければ、「元気です」とだけかけばよいが、 それでも毎週出すこと。こちらからの必要な情報はすべて電子メールにて送るので、 毎週定期的に自分のメールをチェックすること。 私と直接あって話がしたい場合は、オフィスアワー中かまたは火曜4時限に、オフィスまでくること。
どう思いますか?フレッシュマンセミナーに合格(?)しないと進級できないので、 少なくとも電子メールの使い方は覚えるのではないか、とふんだのですが、 今のところ2、3人を除いて、実行されていません。もっとも進級できないってことを 理解してないかもしれませんね。


1997年1月某日
最近車を運転することが多くなりました。筑波の道は広くて運転しやすいのですが、ひとつ困るのは、学園都市地域を出ると、とたんに訳が分からなくなること。 はじめは、これは筑波周辺の問題だろうと思っていたのですが、 だんだんほかの理由があるような気がしてきました。

私の運転歴は、ほとんどアメリカで、こういうとアメリカ人にはおこらえるかもしれませんが、おかげで技術的には、かなりへたくその方に入ると思います。 それにしても、どこにすんでいたときも、たとえばベルギーに居たときも、技術はともあれ 道を見つけるのは得意で、地図一つでかなりどこへでも行ける自信をもっていたのです。 ところが、日本の道では、特に東京周辺では、迷うこと迷うこと。こんな経験をした人は、かなりいらっしゃるのではないかと思います。

私が思うに、これは道の表示法が違うからではないでしょうか。正確には、道路標識を何のためにだすのかという 理由が、日本と私が運転したことのある国とでは、違っているのではないのかと考えるようになりました。
たとえばアメリカの例。だいたい地図にあるような道では、道端に頻繁に道の名前が書いてある標識が立っています。 16号線に乗っていれば、丸に16と書いた立て札がほぼ交差点ごとに立っているという感じです。 ところが、その道がどこにつながっているかについてははなはだ不親切で、ニューヨークまであと何キロ(マイル) などという標識にはめったに出会いません。多くは、右は30号線、左は95号線などと書いてあると思います。だから、あとどのくらいドライブしたら良いかを知るには、地図を詳細に研究する必要がありますが、 そんなことは面倒なので、少なくとも私は「着くまで行く」という作戦を取ります。

日本では、どこにあと何キロという表示がとても多くて、あとどのくらい運転すればよいかわかることが多いように思います。 最も、道は流れているよりも詰まっているときの方が多いので、果たしてこれがどれだけ役に立っているのかは疑問ですが、 それでもないよりはいいとおもいます。ところが今自分がどこにいるかとなると、通りの名前を見つけるのは、 並大抵の苦労ではすみません。だから 日本式で困るのは、ちょっと道を間違えてしまったとき、なかなか自分の間違いに気付けないことと、間違えたと自覚した後では、 もと来た道を戻る以外に 有効な方法がないことのようです。

こう考えてみると、似たようなことがほかにもいろいろあるような気がします。 自分で頭を使って道を切り開こうとすると、それを助ける情報を仕入れることが簡単ではないということを 悟るといった経験は皆さんにはないでしょうか。


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