1996年の独り言

by 梶井厚志

1996年12月某日
オーストラリアからかえってきました。

写真をアップしてみました。誰かカラーのを作ってくれないでしょうか。 最近きれいなホームページが増えてきましたよね。 このページのみすぼらしさが目立ってはづかしい限りです。もっときれいにしてやる、 という奇特な方がいらっしゃればお手伝いを歓迎しますよ。たとえばこんなふうに。

今年の授業が終わったので一息ついています。黒板に向かって、漢字が思い出せずに苦労していますが、 諸君、あれはわざとではないのですよ。そのうちよくなると思うので辛抱してください。 昔、妙に英語を会話に混ぜるやつを私もいじめたものですが。 ひとつ気になるのは誰もオフィスアワーに現れないこと。僕の授業がそんなにクリアーとは思えないから、 疑問点はいろいろあると思うんだけど、どうしているのだろうと心配しています。


1996年9月某日
オーストラリア国立大学にただ今滞在中。

大学のある首都キャンベラは今春の入り口。日中の気温は15度くらいまであがる。そのせいか、こちらの九月といえば 日本の三月と同じはずなのに、キャンパス内の通りでは、桜が咲いている。ところが日暮れと共にとたんに冷え込み、明け方には5度以下になってしまう。

住んでいるのは大学所有のアパートで、オフィスから歩いて5分。 キャンベラの街を二つに分ける湖を見下ろす丘の斜面にあるコンプレックスの二階の快 適なワンベッドルーム。 リビングルームには、湖を見下ろす南向きに大きな窓があり喜んでいたら、けしからぬ ことに太陽は何と北にのぼるである。


1996年8月某日
先日自動車免許を取った。日本で苦労してとった方々には申し訳ないが、8年前にアメ リカで40ドルほどでとったやつを、日本のに書き換えたのだが、これが何と一日仕 事。

まず、つくばからはるばる水戸まで行かねばならぬ。7時過ぎつくば発、電車930円で 水戸駅9時、バス430円で試験場到着9時半。受け付け窓口14番、申請書に記入、2100円の収入印紙を貼り付け、 JAF でまえもって3700円もかけてつくってもらった エレガントな免許証の翻訳文を添えて申し込 むと(註1,2,3)、昔はそれで日本の免許をくれたらしいが、今はやはり実技試験を受けなければならないことが判明。 試験は箱庭のようなコースを二周する、所要5分のものだが、しかし試験官が一人しかいないので、自分の順番が回ってくる までずいぶんと待たされる。それにしても、はじめに大体いつ頃になるかわからないのだろうか。 そもそも電話かなんかではじめから時間を予約できないものなのかなどと考えてコースのわきで本を読んで待っていると、はたして午前中にはお呼びはかからず 、お昼になってから結局私のばんは午後ということになった(註4)。

試験に使う車は白のセドリック、当然オートマチック(シフトスティックのやつは、 アイスランド以外では運転していません)。社工系の某氏が道路の右を走って即試験停止になったと いうのを聞いておお笑いしたが、実際走ると勝手が違う(笑ってごめんなさい)。まがった後でどちらに行けばいいのだったか、 とっさには判断できないのだ。試験 コース内には、ほとんど車がいないのが、かえって難しい。前にいればついていけばい いのだが。しょうがないから左、左、左と、ぶつぶつ念仏をとなえて走る。横では試験 官が、何やらメモを取っているのが気持ち悪い。商売がら逆に試験されるのというのは嫌なものなのだ。

走行中、ワイパーを方向指示器と間違えて動かし(註:右ハンドル車では位置が反対)、 止めかたがわからなくなったので ほっといておいたら試験官が止めた。これは減点の対象だろうか。結局特に問題なく( と思うが)合格。1時30分。ところが、この唯ひとりの試験官が切り盛りしているの で、全員の試験が終わるまで先に進まない。ひたすら待つ。

本を読むのも厭きたころ、朝からにぎやかに話をしていたふたりの女の子達の一人が、 実は筑波の学生だということが判明。落ちなくてよかった。彼女たちもとおりました。 本人の名誉のため、何回目の受験だったかは公表しません。

試験終了3時。視力検査の後待機。待合所のテレビでは、高校野球の決勝戦をやってい る。待たされている人々が、一様にうつろな目でそれを眺めているのがおもしろいが、その気持ちはよく分かる。 試合終了。まだ免 許証はできない。

4時。写真を撮って、出来立ての免許を受け取る。水戸までバス、5時の電車で土浦 へ。7時前に帰宅。


(註1)このためにわざわざJAF会員になる必要はありません。
(註2)しかしながら、英文の免許証を読むのにどの程度の語学力が必要かは意見の分かれるところでしょう。
(註3)さらに思うに、要するに申請者の持っている免許証が本物かどうかが分かればよいのではないのではないだろうか。すると翻訳は役に立つのだろうか。
(註4)この手のところは人を待たせるのが好きなようだが、これはひょっとすると儒教の影響であろうか。経済学の入門書を開いて「機会費用」という言葉を見てみよう!このタイプの時間の無駄の経済効果を調べる研究をした方がいらしゃいましたらご一報ください。 back to the index page