2021年の独り言

by 梶井厚志

2021年12月某日

日高名物の秋サケは、今年も不漁のまま漁期を終えた。しかし、毎年のように不漁が続くところをみると、今年が不漁というのではなくて、サケの資源量そのものが枯渇していると考えるほうが自然だろう。とれないといえば、タコも不漁だそうで、こちらのほうは初秋に大量発生した赤潮が原因らしい。

サケを狙って張られる定置網には、ブリが良くかかるそうだ。かつては見当たらなかったブリが、大量にかかるとのこと。海が温かくなってきているのと、海流の変化が原因らしい。こちらの人はブリを馬鹿にして(?)食べないが、脂がのってとてもうまい。腹をくくって、ブリをブランド化したほうが近道のように思われる。

そして今年はサバも良く取れた。このあたりの鯖といえば、かつては痩せてうまくなかったそうだ。そのためか、このあたりの人はサバを食べようとせず、タダ同然の値段で取引されている。ところが、今年の鯖は丸々と太って脂がのっており、たいそう立派な体形だった。体つきが良いだけでなく、煮ても焼いても大変うまい。なのに、たいそう安い。 この秋は随分と食べたが、全く飽きなかった。温暖化が原因なら、今後も太ったサバに恵まれるのだろう。こちらもブランド化できないものだろうか。

季節はもう冬。これからはカニが楽しみな季節なのだが、果たして漁はどうなるのだろう。


2021年11月某日

野球を見なくなって、しばらく経つ。今年はオオタニサンの登場する試合だけ興味をもって何度か見たが、大リーグのシーズンが9月に終わると興味を失った。 日本のプロ野球は1試合も見なかった。オリンピックも見なかった。北海道日本ハムの監督が新庄になるというのは知っている。道民は、この大ニュースから逃れられない。普段は全く野球に興味がなくても新庄ファンという人は多いらしい。私の身の回りにも、彼の現役時代には、彼を見るために静内からわざわざさっぽっろドームまで試合を見に行ったという人がいる。しかし、私は見に行かないだろう。

試合の時間的長さに耐えられなくなったのが、野球を見なくなった最大の原因だ。大リーグの試合時間は長い。今季の平均時間は、9回あたりで3時間10分もあり、史上最長だったそうだ。日本の試合時間も長く、昨年で3時間8分だったそうだ。

いそしむ娯楽の内容によっては、3時間どころか、朝から晩まで私は没頭する。なので問題なのは、3時間という絶対時間の長さよりも、その内容にある。3時間という長さのわりに、その間に起きる注目すべき事柄が少なくて没頭できない。3時間かけ、どれだけ待たされても見てみたいという選手のプレーが無くなり、野球が魅力を失ってしまったのである(オオタニサンを除く)。

もっとも、この観点は相対的なものと理解されるべきだ。時間は希少資源だ。与えられた時間を、野球を見て費やすよりも、他のことに費やしたほうが、相対的に私には良いということに過ぎない。なので、野球には変わりはないのかもしれないし、むしろ近年は魅力を増しているのかもしれない。ただ、ここ数年をふりかえると、 私が他に費やす時間の内容には、草むしりが加わった以外には変化がない。それゆえ、やはり自分にとって野球の絶対的魅力が下がったと感じるのだ。

と、ここまで書いた後で気付いたのだが、日本ではまだプロ野球が行われている。日本シリーズだ。試合時間も長いが、日本はシーズンも長くて、付き合いきれない。試合時間を短くするのは、相当な難題らしいが、シーズンを短くするのは易しかろう。


2021年10月某日

庭の草むしりをすると、体調がいい。何より、血糖値が下がるのが良い。この効果には数年前から気付いていたのだが、緑をみるのが心と体によい刺激を与えるためかと思っていた。ところがものの本によると、草むしりはウオーキング程度かそれ以上の運動量があるそうだ。ということは、朝しゃがみ込んで1時間程雑草と格闘すれば、1時間歩いたことになる計算で、それなら血糖値が下がってもおかしくない。もちろん、緑の効果も否定しない。

草をむしるのは、庭にきれいな芝生を維持しようとしているからだ。芝生に囲まれた家に住むのは積年の夢なので、芝の世話にはおのずから精が出る。芝の世話というと、芝を刈ったり水をまいたりする作業を思い浮かべる向きが多かろうが、もっとも手間がかかるのが雑草取りだ。我が家の隣は牧草地で、そこから様々な草の種が自然に運ばれてくるから、芝を育成するには好条件とは言えない。もちろんそれ以外の場所からもどんどんやってきているはずだし、地下茎で広がってくるやつもいる。無農薬のわが庭では、雑草があきれるほど生えてくる。雑草のない芝生には、相当量の薬品が注ぎ込まれているに違いない。

この草むしりは、芝生に雑草が生え始める6月頃に始まり、芝が緑色を失う12月になるころまで続く。今年の作業もあとひと月ほどだ。長い期間やっているように感じるのだが、この有酸素運動の恩恵にあずかるのは半年ほどだ。

正月を迎えるあたりから庭は凍り付き、シャベルでたたくと金属音がするようになる。地中の氷が溶け始めるのは4月になってからだ。そんな凍てつく寒さの中でも芝は生き延び、桜の咲く5月頃には再び緑になる。そして、雑草たちもまた生えてきて、再び草むしりが始まるのだ。


2021年9月某日

先月、ワクチン接種(ファイザー)を済ませた。小さな町に住む糖尿人なので、幸いにも比較的早い順番が回ってきたのだ。喧伝される副反応はほとんどなかった。医者から解熱剤ももらい(有料!)、3日寝込むつもりで本も軽いものから重厚なものまで何冊かそろえて待機していたが、反応らしい反応もなくて、結局どれも読まなかった。あまりにあっけないと、本当に効き目があるのかと、かえって心配になる。

とはいえ、授業の始まる前に済ませることができたのは喜ばしい。これでマスク無しで対面授業もできのるならさらに喜ばしいが、政府も大学もそこまでの度胸はないようだ。

授業の後は、居酒屋のワクチン割引で飲めるのかと楽しみにしていたが、緊急事態宣言が延長されたので店は開いていないのだろう。再びコンビニでビールを買ってのホテル飲みか。

このところ、ビールには無糖質の新製品がでてきている。これがなかなかイケる。醸造酒らしい甘みが感じられるのがよい。新しいドライ型のビールですよといわれれば、私はそう信じるだろう。もっとも、糖質オフ生活が長くなったため、私は甘みに対してかなり敏感に反応するようになっているから、この甘みについては異論があるだろう。まだ詳しく調べていないのでデータ不足なのだが、どうやら本当に血糖値は上がらないようである。これは私にとっては偉大な発明だ。


2021年8月某日

8月にはいって暑さは勢いを増し、静内では31.7度になったらしい。観測が始まって以来最高気温だそうだ。

このくらいの気温になると確かに暑い。我が家は海風を受けるので、体感温度はもう少し低いとおもうが、それでもこの地で真夏の暑さを初めて感じた。家にはエアコンがないから、暑くなると窓を開けて風を入れるくらいしか手がない。これは暑いと思って家の中の温度計をみたら29.8度であった。習慣では30度を超えたに違いない。窓を開けていると、夜の室温は25度ほどに下がるので、寝苦しくはない。

また、自然風を入れての30度と、冷房をつかった28度なら、前者のほうが快適である。エアコンを取り付ける場所はあるのだが、オリンピックとともに熱波は去ったので、エアコンを考える前に気温が下がり、窓も全部閉めた。しかし、この調子で年々暑くなると、早晩エアコンの心配をしなければならないだろう


2021年7月某日

昨年に比べると今年は雨が少ない。昨年は6月終わりから7月にかけて良く雨が降り、ちょうど梅雨のようだった。ようだった、と書くのは、北海道には梅雨はないからだ。東北以南では梅雨入りと梅雨明けが宣言されるが、梅雨のない北海道では梅雨入りも梅雨明けも宣言されない。

確かにかつての夏の北海道はからりとしていて、梅雨がないというのいうのもたやすく合点できた。梅雨のような雨が降るのは、きっと温暖化のせいだろう、温暖化で梅雨が北海道にも来るようになったのに、昔からの規則で北海道では梅雨を語れないのだと私は思っていた。ところが、この時期に北海道にやってくる長雨の原因はオホーツク海上に発生する低気圧で、本州を横切る梅雨前線とは異なるそうだ。それゆえ北海道でおこる梅雨のような現象は梅雨ではない。区別するために蝦夷梅雨と呼ばれるとのこと。しかし、私の住む日高地方は、オホーツク海からは遠く、しかも間に日高山脈がある。そのためオホーツクより本州の影響が強いはずとおもわれるのだが、これは素人考えだろうか。

雨が少ないのは過ごしやすくてよいが、その反動なのか北のほうは連日の猛暑である。東京を逃れて札幌にやってきたオリンピックのマラソンと競歩だが、ここ一週間ほどは札幌の日中の気温は32-3度あるそうだ。夏の気温が高くない日高地方沿岸部でも28度まで上がった。このくらいだと私には実に快適なのだが、近所の人たちは暑くて死にそうだといっている。


2021年6月某日

関西学院にはチャペルアワーというのがある。経済学部の教員は2年に1度くらいこれにかりだされる。とはいえ、おぜん立ては他の人が全部やってくれるから、学生相手に10分ほど好きな話をするだけでいい。私は自分の思い出話をすることにしている。

自分の順番は2019年11月、関学に移った直後に1回目、そして今月2回目の担当をした。コロナでビデオ講話にすることもできたのだが、私はどうもこれが苦手なので対面で話すことにした。経済学部の広いチャペルに出席者は20人ほどだから、全く密は発生しない。

話した内容は、「エコノフォーラム」という学部の広報誌に載せることが義務化されているので、私は話す前に原稿を書いてしまう。書き始めるといろいろと思いだすことがある。今回のは特にそうで、全部話せば20分以上かかりそうな原稿ができた。もちろん制限時間を超えられないので、実際には原稿の前半部分を話した。エコノフォーラムにも文字制限があり、原稿ははるかにこの制限を超えている。なので、こちらも話をした部分に対応した短縮版を載せる予定。

せっかく書いたので、完全版をこちらで公開することにした。話に登場する数学教授は、一橋大学商学部名誉教授の大成節夫先生(故人)である。


2021年5月某日

私はナッツ類が好きだ。特にピーナッツやカシューナッツが好きだ。アーモンドやクルミも好んで食べる。中華料理にはピーナッツやカシューナッツを上手に使った料理が多くて、私の好物である。東南アジア各国のカレー料理にもナッツが上手に使われていて美味である。

糖尿人の見地からすると、ナッツ類は非常に優秀な食べ物だ。栄養価が高く、糖質は比較的少ない。くるみは非常に優秀。カシューナッツは比較的糖質が多く、100グラムあたり20グラムくらいらしいが、炊いた白米は100グラム当たり40グラム見当だからだいぶん少ない。

糖質オフ生活を始めるにあたり、ナッツの効用を見直した。ピーナッツ好きの私だが、実はこれまでほとんど食べていなかった。それは思春期時代のニキビが理由である。栄養価が高く脂分も豊富なピーナッツを食べると、呆れるほどにニキビができる。顔面は紅潮し、そこかしこから火山が噴火するかのごとく吹き出物があふれ出すのである。この因果関係は、食品成分に関する知識が全くなくてもすぐに体得できる。それゆえ、ナッツ類は当時の禁忌であり、私はほとんど口にしなかった。

さて、血気盛んな青春時代は遠い過去になった。体の活力に不安を抱える年代となると、かつてあれほど私を悩ませたピーナッツをたべても、顔面が紅潮したりするようなことはない。少し寂しいが、うまいものをたんと食えるのはありがたい。


2021年4月某日

我が国でのコロナウイルス・ワクチン接種数は、3月末でちょうど100万人ほどである。毎日5万人ほどが接種を受けているらしい。 これは桁違いにすごい数字である。国を挙げて驚いてよい数字なののだが、世論には思いのほか響いていないようだ。

アメリカ合衆国では累計接種回数が1億5000万回ほど。2回接種が必要なワクチンが主流なので、7千万人くらいが接種完了というところか。英国は5000万回を超えて、接種数は人口の半数を超えた。コロナ対策で評判の悪かったブラジルは、やはり遅くて2000万回ほどにとどまる。それでも100万の20倍だ

シンガポールは130万回ほどであるが、人口が違う。100人当たりの接種回数は23回だ。日本は0.8回だから、20倍をはるかに超える。

インドは6500万回。しかしこちらも人口が違う。100人当たりの接種回数は5回弱で、日本の5倍である。バングラディシュは500万回。100人当たり3.3回。

実は日本より遅い国を見つけるのはなかなか難しい。アジアだとベトナムでは100人当たり0.1回でかなり出遅れているが、かの国ではそもそも感染者数がはるかに少ない。台湾も同様である。タイが100人当たり0.3回、フィリピンが100人当たり0.5回。クーデターで荒れるミャンマーでは100人当たり0.7回で、やはり日本より遅いのだが、差は大きくない。

ドイツでは、ワクチン対策の不手際で世論の不興をかい、与党の政権維持に支障をきたし政権交代が取りざたされているそうだが、接種数は1300万回、100人当たり16.6回である。

(数値はいずれも日本経済新聞社と英フィナンシャル・タイムズの集計による)


2021年3月某日

キンキという魚がいる。東北だと吉次とも呼ばれる。この魚は、カサゴの仲間で、肌が赤い。水深200メートル以上の深海に住む魚だ、上品な脂ののった白身の魚で、身はは柔らかくうまみも強い。高級魚である。このあたりの人は煮つけにして食べるが、私は蒸したほうがうまいのではないかと思う。白ワインによく合う。揚げて中華風のソースをかけてもよいだろう。開いて干したやつを、炭火焼にするのもよい。もとより上手に作った煮つけもうまいから、文句は言えない。

日高沖で今年はキンキが豊漁だそうだ。鱒や鮭、そのほか近海にやってくる魚を狙った定置網にどんどんかかるらしく、もっぱら東京などの大消費地に送られているとのこと。豊漁だと値段が下がるのが需給法則だが、全く値崩れはしておらず、むしろ高値であるとか。確かに、このあたりの店に出ているのも、昨年に比べて特段に安いとは思われない。つまり、今年は供給が多いだけではなくて、需要のほうも多いのである。どうやらコロナの巣ごもり効果で、普段だと一般家庭には敬遠されがちな高級魚が、食卓に上っているためらしい。

さて、キンキが入り込んでくる定置網は海の深いところまではいっていない。深海にすむキンキは、普段はあまりかからない魚なのである。それゆえ、これは大地震の予兆ではないかと魚屋がしきりに言っていたのだが、本当に東北で大地震があった。聞いてみると、東北でも今年はキンキがよく取れたとのことである。


2021年2月某日

入試の監督は、新センター試験が1日と、学部の入試が1日あたった。はなはだしく非効率的な仕事で、例年うつうつとしてこの時期を過ごすものだが、今年に限って言えば、久しぶりに大勢の人を見たり、対面で雑談できたりできたために、存外楽しかった。ただし、来年は再びうつうつとした日々になることを望む。

すべての授業の成績を提出し、波乱万丈の2020年度授業も終結。数えてみたら小テストを3つの授業合わせて20回以上やっていた。どうりで、授業に時間がかかったはずだ。他方で、期末テストのほうは小テストの問題を、少々変えて流用したので、作るのも採点するのも楽であった。何百もの答案を読まされるより、オンラインで自動採点される選択式テストは精神衛生上非常に好ましい。成績は、小テストや期末試験、その他の課題(これもオンライン)の成績データをダウンロードして、表計算でグラフを書きつつ、学校で要請されている平均点になるよう、元データを単調変換(つまり元データにある成績順序は変えないように点数を変える)してつける。

オンライン教材はOneDriveの共有ファイルとして掲示することにした。やり始めて気付いたのだが、このやり方だと誰がその教材を開いたのかが分かる。200人を超えるクラスで、誰がどこまで見たのか調べる気力は起こらないが、特定の教材を何人が見たのかという総数だけは、学期を通じて興味をもって調べていた。すると、教材を見ている学生総数は受講者数をはるかに下回っている。小テストは、毎回解説スライドを掲示したが、こちらにいたっては受験者の3分の1も見ていない。スライドを見れれない事情があるのか、見たくない事情があるのか、見る必要もないのか、データではわからないが、ともかく与えられた教材を用いて復習しようという学生はむしろ少数派であることが分かる。期末試験直前に多少は上昇したが、それでも見た学生はのべで3分の2ほどである。まあ試験ができていればそれでも文句はないのだが、十分に出来ているといえるのは3分の1ほど。スライドの閲覧回数と試験成績をワンクリックで分析できるツールがあれば、使ってみたい。こちらとしても試行錯誤を繰り返してやった授業だから、そのような教材での学習方法がわからなかったと結論されればそれまでだが。


2021年1月某日

こんな夢を見た。

観自在菩薩が、しかめっ面をして書物を読んでいるところに、普賢と文殊が通りかかった。普賢が、そんなに険しい顔ばかりしていると、また顔の妙なところにしわが寄るぞと声をかけた。君は十分な成果を上げたじゃないか。人々は安心し、喜んでおる。このまえ阿弥陀が、観音には仏になりたくない裏事情でもあるのではないかといぶかっていたぞ。

書物を傍らにおいた観自在はこう言った。私は人々が喜べる事情が十分にわかってはおりません。いや、未だに何もわからないといっていい。たしかに、人々の信仰によって世の中は平穏を保っておりますが、何故そうなっているのか私には理が見えないのです。平穏は確かに喜ばしい。しかし、何故信仰によって平穏が保てているのか、その理屈が私にはわからない。うまくいくのは目にはみえない民力のたまものだと虚空蔵がいっておりますが、それなら一体民力とは何なのでしょうか。その理を知らないのであれば、たまたまうまくいっているというのを言い直しているだけではないでしょうか。何かの事情で平穏が失われたとき、いったい人々は何を信じるでしょうか。そのような時に、理を知ることなしに、人々をどのように導けばよいというのでしょうか。

いま結果が出ていればよかろう。信じることで皆が喜び平穏が保たれているなら結構ではないか。それ以上に何をどのように導けというのだ、と文殊が言う。

このやり取りを遠くの池のふちでご覧になった阿弥陀如来は、池の中にむけてなにやら粉のようなものをそうっとまかれた。これはまた新しいウイルスに違いないと思った時に目が覚めた。