Essay2013 A Kajii

2013年の独り言

by 梶井厚志

2013年12月某日

プサンのロッテ百貨店裏側には、さまざまな店が集まっている。安い居酒屋、食堂系のものが多い。ここで、表にタコを抱えた男性の大きな写真が掲げてある食べ物屋に入った。これでタコ料理を出す店でなかったら、詐欺である。ともあれ、店の前の写真以外にまったく予備知識なしに入ってみた。

入ると、店内は殺風景。4人がけくらいのテーブルが16ほど。こういうところでしくじらないためには、まず客層をつぶさに観察し、いけないようだったら即座に店を全速力で飛び出さなければならぬ。恐る恐る観察すると、肝心の客層はサラリーマン・OLの一般庶民で、テーブルも8割がた埋まっている。隣のテーブルには、OL風の娘2人組。ここならひどい目にあうことはない

おばちゃんがやってきて、「メニュー・ワン」といって指を一本立てる。ワンじゃなくて、ツー以下も書いてあるメニューはないのかと日英2ヶ国語で通信を試みるが通じない。どうしたものかと思い、周囲に助けてくれる人はあるまいかと見回しているときに、はっと気づいた。メニュー・ワンとは、メニューは1種類しかないということだ。おそらくは何品かがセットになっていて、頼めばそれらが順番に出てくるいわばコース料理なののである。その証拠に、どのテーブルでも、コースの進行進度は異なるものの、同じような料理を食べている。それで、使用言語を万国共有言語に切り替え、「オーケー、ビール・ワン」といったら、おばちゃんが電光石火でビールをもってきた。

で、そのメニュー・ワンの内容は、あつあつの卵スープに始まり、焼き魚2種、エリンギのようなきのこをいためたものがでてきた。素朴だが、美味である。ビール・ワンにつづいて、ソージュ・ワンを2度ほど繰り返したころ、茹で上がった、大きなタコの足がでてきた。これをはさみを使って自分で切って食う。ごま油と、なにやら赤いソースがあるが、私はこの赤いのをたべると消化器系統に異変が発生することが多いので自重し、塩と油で熱いところをたべる。大変美味である。ふと隣のテーブルを見ると、この娘たちはタコはほとんど食べずに、3本目の焼酎ボトルを飲み干している。(注:韓国の焼酎ボトルは360mlサイズが基本、日本酒よりも少し強い)

メニュー・ワンの料金は、おそらく2万ウォンだと思う。最大でも2万5千。幅があるのは、酒がどのように勘定されたのか、よく分からないから。飲み放題?また行きたい店だ。


2013年11月某日

京都大学には、リフレッシュ休暇という制度がある。平成25年度に創設された新しい制度のとのこと。 私がその対象者だという。ついに、日ごろの社会の貢献が報われ、リフレッシュのため半年か1年間くらいの長期休暇がもらえるのか。これなら、集中して新しい本が書けるかもしれぬと、この連絡を受けたときにはずいぶんと喜んだものだ。

しかし、リフレッシュ休暇とはいったい何か。規則をよく読むと、次のように書いてある

○リフレッシュ休暇
 対象者:平成25年4月1日以降に40歳又は50歳に達した常勤教職員
      (特定有期雇用教職員、外国人教師、外国人研究員を除く。)
 休暇の種類:特別休暇(有給)
 休暇の日数:週休日、休日を除き連続する5日間
 取得対象期間:40歳又は50歳に達した日から1年を経過する日までの間
 休暇の請求方法:予め休暇簿(特別休暇・職務専念義務免除用)により提出

日本語に訳すと、誰でも50歳になれば、そのお祝いに有給休暇を5日間あげますということだ。リフレッシュ休暇などと、大げさな名前をつけないでほしい。


2013年10月某日

シンガポール滞在ものこり1週間ほどになった頃、シンガポール在住の人々と夕食会をしようと思いたち、郊外にいるNUSの日本人たち3名を街中に呼び出そうと、こんなメールを出した。

「私のシンガポール滞在もあと一週間になりました。つきましては、ダウンタウン エリアで食事はいかがでしょう。(中略)プラン(順不同) ご検討の上、どれかを選んでください(モノによっては同日 に2つこなすことも可能)
  1. クラークキーで川を眺めながらベトナム系料理?
  2. チャイナタウン・センターのホーカーで梶井お気に入りの中国人の女の子の お酌でビールを飲む
  3. SMUすぐそばのChijmes で教会を見ながらビールを飲む(メイドカフェつき)
  4. 中心部Esplanadeにある梶井お気に入りのインド料理(シーフード中心)
  5. そのすぐ隣にあるやや高級フードコート(marina bay sandsがみえる)
  6. リトルインディアのパキスタン系料理(ブッフェスタイルなので体に良くな いか)
(後略)」

すると受け取った3名がそろってB案を支持。チャイナタウン・センターのホーカーは、夜9時にはあらかたしまってしまうから、まずここで勢いをつけてから、ほかのプランに振り替わろうという算段をたてて、自分が滞在中のSMUにいた2名をさそい、NUSの3名とチャイナタウンで合流して総勢6名。7時スタートの予定が、例によって私が少々遅刻したために、目的の場所に着いたのは7時半に近かったかもしれない。

目指していたのは、チャイナタウン・センターの2階を占めるホーカー南端部分である。食事用のテーブルと固定椅子が並んでいるが、この辺りにいる人たちは固形物はとらずに、わいわい騒ぎながらもっぱらビールを飲む。食べ物はあとで買い出しにいくとして、まずはテーブルの確保である。水曜日だというのに盛況で、なかなかあいている場所がないが、息をしているのかどうかわからないくらい影の薄い老人が1人でビールを前にしているところをなんとか見つけ、その横のテーブルを確保した。

しかしB案において本当に大切なのはここからだ。辺りを見回し、ビールの売り子を捜す。そう、私のお気に入りの中国人の娘とは、ここのビール売り子の一人なのである。ところが、肝心のそのマドンナが見あたらない。

すると同行のTが「先生、タイガー・ビールがお好きなんですよね。この人がタイガー・ビールを売っているそうです」という。みると、その女性はおよそ20年くらい前に私のマドンナと同じ年頃だったような人である。胴周りも少なく見積もってマドンナの2倍ある。もし、私からの上記のメールを読んだTが、この人を私がお気に入りのマドンナだと想定したのだとしたら、不見識も甚だしい。

英語は話せないふりをして、適当に追っ払えと目で合図したら、Tはにこにこしながらおばちゃんと英語で語りあい、さぁて何本たのみますかとにこにこしながらこちらにお伺いを立てるのである。なんという使えないやつだ。このようなKY輩にはきつくいってやらねばならぬ。それで私は言った。「4本たのんどいて。」

私がようやくマドンナを発見したのは、おばちゃんが4本のビールを持ってきた後だ。おばちゃんのタイガービールは大瓶(日本のと同じサイズ)1本5ドル、合計20ドルである。(1シンガポールドルはおよそ80円)

このエリアではそれぞれの売り子は自分の担当しているビールしか売らないし、客には自分が担当するビールだけを飲ませようとする。たとえば、売り子を呼び止めてカールスバーグをくれというと、私はハイネケンだからハイネケンにしなさいといった具合である。 しかも、私の研究によれば、タイガー・ビールを売るのは2名しかおらず、一人はマドンナである。もう一人はといえば、これもなかなか捨てがたい魅力的な若い娘で、私はマドンナ2号と呼んではばからない。すなわち、チャイナタウン・センターのホーカーの事情に疎くとも、タイガー・ビールを飲むという意志さえ強く持っていれば、まちがいなくどちらかのマドンナにビールをついでもらえるはずで、知恵熱がでるような高度な駆け引きはまったく必要ないのだ。 プランBは、実際私の深謀遠慮の産物なのであった。

しかるにこの戦術がなぜ破綻したか。そういえば、今日はマドンナ2号の姿が見えない。どうやら、マドンナ2号は本日おやすみ、かわりにこのおばちゃんがタイガー・ビールの売り子をしているようだ。売り子に休日があっても驚くに値しないが、なぜそれを考慮しなかったか。

ともあれ、おばちゃんが注いでくれたビールをもって六名で乾杯した。この蒸し暑い中で冷えたビールを飲み、わいわいやるのは快適だ。それにしてもTには一言いってやらねばならない。

「あのね、私のお気に入りはあそこを歩いてる娘。ビールごとに売り子は決まってるの。おばちゃんから頼んだら、今日はずっとおばちゃんのお酌で飲むことになるよ」
「え、ボク大変なことしちゃいましたか?でもタイガーは飽きたから、次はほかのビールに変えるといえばいいじゃないですか」
「僕のマドンナもタイガーなんだ」
「はあ、タイガーからタイガーに変えるというのは、さすがにまずいですかね」

道義的な問題はともかく、実はそのとき経済学的にもタイガーからタイガーに変更するのをはばかる理由があった。おばちゃんのタイガービールは5ドルとすでに書いたが、奇妙なことに、この1週間前に私がマドンナからタイガー・ビールを買ったときは5ドル20セントだったのである。でてくるタイガービールは、どう見ても同質のものだ。この狭い空間で、経済学の偉大な基本原理である一物一価の法則が成り立たないのはなぜなのかまったく理解に苦しむ。20セントはマドンナにビールを持ってきてもらうためのプレミアムであろうか。いやいや、たしかかつてマドンナ2号からタイガービールを買ったときも5ドルだった。ゆえに、これは説明として弱い。ともかく、次のビールをマドンナに注文するというのは、安いタイガーから高いタイガーにあえて変更することを意味するため、普段から市場の原理を講釈している私には少々つらい作業なのであった。

まあこのような苦境に陥ったのはTの責任なのだから、こやつにタイガー交換を命じようかと考慮しているさなかに、なんとマドンナがやってきて、ぬれたテーブルをふきんで丁寧に拭いて、あでやかな微笑をたたえて私たちにビールをそそぎ始めるではないか。 この売り子たちはビールを売っただけの歩合制で働いていると推測されるから、すでにおばちゃんに支配されている私たちにビールを注ぐインセンティブはないはずだ。隣にいたYは、確かにいろんな意味で可愛いですねぇと感心している。じゃあ、道義も経済原則もかなぐり捨てて、マドンナからタイガーを追加するかと口を開きかけたまさにそのとき、かのおばちゃんが来襲し、少なくなっているからまたおかわりいこか、とくるものだから、気の弱い私はまた4本指を出してしまった。このおばちゃんのリズムは大阪ミナミ界隈のそれとまったく同じである。

私はこのおばちゃんに見切られてしまったようで、おばちゃんはそれからも頻繁に来襲し、そのたびに私に抱きつかんばかりに寄り添い追加注文をもぎとっていくのである。マドンナといえば、その後も時々やってきてはテーブルを拭いてビールを注いでまわる。だが、おばちゃんにがっちりおさえこまれている私にマドンナは近寄らないから、まったく面白くない。

教訓: 何事も最初が肝心。

マドンナの姿は、夜9時ころには見えなくなった。私が彼女の身の上を案じていると、今度はギネス・ビールのワンピ―ス服(レースクイーン風?)を着た、ギネス・ビールの売り子2名がやってきた。この子たちはおそらくシンガポールの地元大学生で、英語は私よりはるかに達者である。ちなみにマドンナはほとんど英語を話さない。なんだかよくわからないものの、大人の私たちは当然ビールを注文したわけだが、代金をとったらこの娘たちは電光石火いなくなってしまった。飲みきれなかったビールは掃除担当の兄ちゃんに与えて乾杯。こういうのを傍若無人というのであるが、幸か不幸かホーカーにのこって飲んでいるのは私たちだけだったから、特段の恥をさらすこともなかった。

引き上げることにしたころは、もう11時をまわっていた。


2013年9月某日

シンガポールの冷房はとにかくよく効く。50肩を病む身にははつらい。飲食店ももちろん例外ではなくて、バーに行ってビールを飲むときには、相当な覚悟が必要で、とても2杯3杯と飲む気にはならない。 健康には良いことだが。

シンガポールの屋外フードコートはホーカー( Hawker)と呼ばれ、いろいろな場所にある。さまざまな各国料理の小さな飲食店が集まっていて、テーブルと座席を共有している。屋外といっても、通常は屋根がある場所で、 ただ壁がないから外気が吹き抜けるという仕組みだ。もちろん冷房はない。冷房の効いた屋内のフードコートもたくさんあるのだが、上の事情があるから、暑い日中ならまだしも、夜になって冷蔵庫の中のようなところにあえていきたくない。まあ、さっさと家に帰ればいいのだけど。

今回の滞在での発見。ホーカーで飲むビールはうまい。シンガポールで飲めるビールは、味の軽いものばかりであるから、じっくり味わうというよりはのど越しを楽しむべきものである。 そのため、蒸し暑い中で冷えたやつをぐっとやるのが好ましく、そのためにはホーカーの環境は非常に適しているのである。ホーカーのビールは他と比べてとても安く、しかも売り子の女性はグラスが空いていると見るや、さっとやってきて酌をしてくれる。もっとも、これはもっと飲んで注文しろという商売熱心さそのものであるが。


2013年8月某日

今年のSWETもつつがなく終了。今回は札幌エリアと釧路エリアに分かれて開催という企画。ただ、釧路で何が起こったかは、私には分からない。少々こだわりすぎたかもしれない。来年からは、素直にやろうと心に決める。

毎年、少しずつ新しいことに取り組むことにしているが、今年はペーパーレス化をおこなった。これが環境改善にどれだけ貢献するのかはなはだ疑問であるが、配布物を用意しなくて良いとなると、 現場の世話人の仕事がずいぶんと楽になる。こうなると、タブレットは便利である。

さてSWETはどれだけ続いてきたのか。SWETページの記録によれば、2006年の合同研究会を第1回SWETと考えるのが妥当だろう。したがって、今年が第8回ということになる。SWET2015は、企業から協賛金を募って、第10回記念の大きな大会にしますかね。SWET2014では韓国のグループも参加するといううわさも聞く。


2013年7月某日

富山の学会では、理事会が思いのほか早く終わり、次の約束まで30分以上時間ができたので、立ち飲みの居酒屋を見つけて入ってみた。特筆すべきことはなくて、残念ながらまた行ってみたいという店ではないのだが、「イカの黒作り」なるものを知ったのが収穫だった。イカの黒作りとは、イカの塩辛にイカの墨を混ぜ込んだようなものである。そもそも、イカの墨は海の香り豊かにしてその味濃厚な、絶妙の食材であるから、確かに塩辛にこれを使わない手はない。酒肴にしてよし、また飯にのせてもうまい。少し多めに買って帰り、思い立って和風のパスタに仕立ててみた。これもよい。


2013年6月某日

名古屋でAとHと飲んだ。この日はかの有名な大甚に行くべく、かなり早いスタート。というのも、前回この店に連れて行ってもらったとき、たしか時刻は7時ころだったと思うが、すでにあらかた食料は尽きていて、すでに閉店間際の様相を呈していたからである。そこで、今回は満を持して5時くらいに店に到着したのだが、すでに店の中は人がいっぱいでごった返している。2階の座敷にあげられたのだが、座敷といっても実に狭いスペースに人をたくさん押し込めるべく算段されていて、無駄に体が大きくて腰から大腿部にかけての柔軟性を欠く私には少々つらい。しかも、至近距離に座る隣のグループにはスモーカーがいるから、とても長居できる状態ではない。一階は確かテーブルで、しかも禁煙セクションまであるから残念である。まあ、そもそも長居するべき店ではないのかもしれないが。

さすがにこの時間帯だと、売り切れになっている食べ物は少ない。てごろな皿を少しと、焼き魚を頼むここで少々やってから外に出ると、そもそもはじめた時間が早いものだから、まだあたりは明るくて、健全な大人がそろそろ飲酒を始めようかといった頃合なのである。そこで健全な大人よろしく、われわれも2軒目に入り、安いワインをずいぶんと飲んだ。ろくに食事もせずにワインばかり飲んでいたら、従業員の女の子はあまりいい顔をしない。それもそのはずで、気づいたら時刻は11時を回っていたから、われわれはここに4時間近く粘った計算だ。かなり酔っていたのは私だけではないと思う。まったくたちの悪い客である。

このような状態でも、Hは勘定書きをしっかり確認すると、ワイン1本分の値段が入っていない、それとも食事1皿の値段が入っていないだったか、とにかく勘定が過少で誤まっていると主張しだした。それで、正確に計算して来いといって女子従業員に勘定書つき返したら、主張は認められ請求金額が増えた勘定書が帰ってきた。Hはたいへん偉い人物である。このようなことは誤まってもかまわないのではないかと私のような小人は思ったものだ。

これだけ長い間一緒にいたので、いろいろな話をした。中でも一番印象に残っているのが、首相の改憲欲を解釈するAの説である。込み入った話をあえて大胆に簡略化してまとめるならば、憲法はどうやっても変えられない岩盤規制の極致であり、これを変えることがリーダーシップを誇示するための最も効果的なシグナルだというのがその骨子である。改憲できるような強力な指導者という地位を確保すれば、あまたある制度改革など労せずできる。地道な政策を積み重ねていくよりも、改憲ルートを通ったほうが、結局はより早く効果的に自分の政策を実行できるようになる。すなわち改憲から取り組むほうが、効率的で効果的な政治戦略だというのだ。この説に、にわかに賛成するわけにはいかないが、思いつかなかった論点だったので感心したものである。


2013年5月某日

再びクイーンズランド大学まで行ってきた。前回は今年の2月。このときは、シンガポールに寄りたい事情もあったので、シンガポール航空を使ってシンガポール経由で大学のあるブリスベンまでいったのだが、 シンガポールからブリスベンが思ったよりもかなり遠くて辟易とした。それで今回は、関西空港から夜行の直行便のあるゴールドコーストにとび、そこから電車でブリスベンに行くという行程を採用した。

一度行ったところだから、大体の要領は把握している。予定外だったのは、ゴールドコーストで空港から鉄道駅へ移動するところ。日本の感覚で、空港の至近距離に鉄道駅があると思っていたら大間違いである。勧められてタクシーに乗ったが、駅まで10キロはあって、50ドル近くかかった。しかも、駅には切符売り場以外に施設らしい施設がない。空港最寄の、鉄道の終着駅だから、旅行者向けのカフェなどあるだろうと予想し、そこで朝食をと考えていたものだから、完全に当てが外れた。こんなことなら、空港で何か食べておくべきであった。

ブリスベンまでは1時間半ほど。当然、車内販売などは無い。到着まで大変ひもじい思いをした。


2013年4月某日

J. Mathematical Economicsを、5月1日付で引き継ぐことになった。これまで10年近くcoeditorであったわけだから、ジャーナルの基本的な仕組みやシステムの使い方など、すでに分かっていることも多いのだが、やはり責任者となると、考えなければならないことは格段と多くなる。もっとも、これには慣れの問題もあろうが。

J. Mathematical Economicsは、1970年代に創刊された経済理論の老舗ジャーナルの一つだが、専門家の間での注目度は90年代はじめから長期低落を続けているといっていい。しかし、70年代から80年代後半まで、重要な論文が綺羅星のように並んでいる。この時期は自分が学生で修行中の時期とも重なっていて、自然と私はこの雑誌をよく読んだものである。そんなわけで、これを引き受けた背景には、過去の栄光に対する憧憬があり、また自分が好きだったものを復活させて注目を集めさせたいという願望もある

とはいえ、mathematical economicsというのが、果たして分野として成立しているのかどうか、これは私自身も疑問に思うところだ。分野として成立していないのだとすると、それをタイトルに掲げざるを得ないこの雑誌は非常に筋の悪い宿命を負っていることになろう。憧憬と願望だけでは何も変わらないので、ちょっと熱心に戦略を練ってやることにする。なれないことに時間をとられているのは、そのような理由もある。


2013年3月某日

昨年末、京都大学経済研究科の事務方から、来年の講義希望が未だに提出されていないというメールがきていた。自分のメーラーのログを見ると、9月末にちゃんと希望を提出している。仮にこれが届いていなかったとしても、そもそも9月末を締め切りとした書類なのだから、いまさら何を言い出すかというのが率直な感想である。そのメールには、これは来年度は開講しないということか、至急返答せよと書いてあった。

少しばかり憤ったので、特段の抗弁も理由も記さず、単にそういうことなら開講しないと記念に回答してみた。その回答メールには返事はなかったものの、開講予定でない講義の名目で私が教室を予約していることをさし、これは好ましくないというような趣旨のメールが年明けにどこからかやってきて、どうやら本当に開講しないことになったらしいと悟った。教室の予約までしていたということは、私にやる気があったという証拠ではないかとも思ったが、これまた特段の抗弁も理由も加えず素直に予約を取り消した。

4月から授業担当がないのは、このような事情があったためである。授業を楽しみにしていた人が(もしいれば)、お詫びする。こんなことがまかり通ってよいのかとも思うが、他方で今年はJ math Econの編集長をはじめ、いろいろとやってみたいことがあるから、自由になる時間はいくらでもほしいというのが正直な気持ちでもある。それゆえ、この結末は好都合ではある。というわけで、授業はやらないが、学生指導・オフィスアワー、そして研究会などへの対応はこれまでどおり。ミクロ・ゲーム研究会については、予定通り4月から幹事職を引き継ぐ。


2013年2月某日

数研出版からでる平成25年度の高校国語教科書に、「わらしべ長者」という作品が採用されたことは以前書いた。その後、数研出版が出す国語通信「つれづれ」の新教科書特集号(?)という広報誌にエッセイを頼まれたので、「わらしべ長者」誕生の裏話を書いておいた。この作品が出来たきっかけは、京都の某古本屋における、ブータン版わらしべ長者ともいうべき話の発見にある。その話を探しに行ったのではなくて、まったく偶然に見つけたのである。このブータンの話は、作品内では最後の部分でわらしべ長者との対比として、ほんの少しだけ登場するのだが、実際はこのブータンの話をどのように理解すべきかと考えつづけて、私は「わらしべ長者」を書いたのだった。教科書を手にとっても、この事情はわからないだろうし、それでよい。


2013年1月某日

生まれてから半世紀。今年はこれまでとはちょっと違った一年にします。

手始めに、J. Mathematical Economicsのeditorを引き受けることにしました。老舗ジャーナルの復権を夢見つつ、今年の4月スタートを目指し鋭意努力中。編集室はシンガポールに置く予定。投稿をお待ちします。