2012年12月某日
もう20年は昔のことだ。かの谷崎潤一郎は、書見をするときは、必ず昼間に、居ずまいを正し座って行ったというのを、どこかで読んだ。和服に身を包んだ谷崎が、床の間のある和室で端然と書見をする姿は、想像するだけでも格好が良い。他方、私といえば、机に向かうよりは、ソファーに横たわるか、あるいは畳の上にゴロリとやって本を読みたいという「ごろ寝派」だ。これだと気楽に読めるのはいいが、本当に一文字一文字が頭の中にしみこむかどうかはおぼつかない。自分の学習能力に常々不満をもっていた私は、そもそも大文豪と呼ばれるような人は普段の心がけからして違うのだと、そのときたいへん感心してひざをたたき、自分も居ずまいを正して読もうと決心したのだが、3日と続かなかった。
ところがこのところ、ひざをたたいて自分に活を入れなくても、日中に居ずまいを正して書見することが、少しずつではあるが、できるようになったのである。
わかるようになったのは、それなりの経験を積んだ結果として、私の文筆力や分析力が谷崎に近づいたためではなくて、私の目が悪くなったためである。私の目が悪くなったというのは、これは疑いなく老眼なのである。近い物がかすむ。特に周りが暗いとまったくいけないのだ。寝転がって、枕元の明かりで見ようとすると、文字がぼやけて読みにくい。ぼやけるから文章をいい加減に頭に入れる。なので、頭の中にしっかりと整理されてこないのである。これでは本を開いているだけで、とうてい読んでいるとはいえない。
他方で、太陽光の力を借りて、昼間にきちんと座って読むと、存外見えるのである。同じ本であっても、寝床であれほど集中力を高めないと見えなかった文字が、こうしてみるとほとんど労なく見える。その差たるや全く驚くほどである。文字が見えれば読書も楽しい。どうやら、できるだけ労力をかけずに楽をして本を読もうとすれば、日中に居ずまいを正して読むのが、かえって効率的なのである。
そういうわけで、谷崎の端然たる読書姿勢も、このあたりに真の理由があったのかもしれないと、私は疑い始めた。これぞまさに凡人の思うことなのかもしれないが。
2012年11月某日
Econometric SocietyのFellowに選出された。候補になっていたことも知らなかったから、知らせのメールが届いたときは驚いた。より正確に言えば、始めはこのメールに気づかなかった。古くからの友人のGが、彼がFellowに選出されたというメールをよこしてきて、お祝いの返事をしたら、そもそも共同論文を一緒にいくつも書いているのだから、お前も選ばていないのかといわれ、念のためにメールボックスを見直してみたら、自分宛の知らせが入っていて驚いた。
これは大変名誉なことである。
2012年10月某日
学会で、G氏の講演を聞いた。ひねくれ物の私は、同業者の話を聞いて感激することはめったにないが、これは例外であった。話の内容ももちろんだが、言葉に魂のこもった力があるから、聴く者の心を動かすのである。
振り返ってみると、Mas-Colell先生の講義や研究報告には、いつも感銘を受けた。私は人の話を長い間聴いているのが得意ではないから、これから90分間話を聞くのかと思うと気がめいるのだが、先生の講義はいつも楽しみであった。左手に講義メモが書き込まれたノートパッド、右手にチョークを持ち、派手に身振り手振りを交えて話される。話が本質を抑えてよく整理されているので、その一言一言が脳j味噌に染み渡るような感覚をあたえるのである。
あるとき先生は、数理経済学の授業で講義ノートを研究室に忘れてこられた。教室から研究室まで歩いて片道5分ほどかかる。取りに帰るのは時間がかかるから、ノートなしでできるところまでやるとおっしゃった。ところが開始数分で言葉に詰まり、さすがの先生もノートを見ないとわからないのかと思ったら、前に座っていた学生に君のノートを貸せとおっしゃる。その学生が何も書いていないノートパッドを渡すと、先生はどうも左手にノートを持たないと調子が出ないとおっしゃり、そのあとはその何も書いていないノートを見ながら2時間半にわたり完璧な講義をされた。
Mark Machina氏のセミナー発表はまったく芸術的で、私がDecision Theoryにハマったのはこの人の発表を聞いたからだと今でも思う。ゲーム理論の論文を書くきかっけは、Krishna氏の「ケーススタディー型」ゲーム理論の講義だろう。「本日の目標」となる説明し、それを数学的に証明するという授業なのだが、証明の手順は出席している学生に尋ねるのである。だれかが証明のアイディアを出すと、それをその場で追及して「手作り」の証明を完成させるのである。急所で立ち止まって学生にアイディアを求めるのだが、そのタイミングが絶妙であった。
大学時代では、3年生の時に受講したY先生の理論経済学の講義に大きな影響を受けた。いまノートを見返すと随分とレベルの高い授業で、当時本当に自分が理解していたのかはなはだ疑問であるが、この講義も大好きだった。深く考えたことがなかったが、ひょっとするとこの講義を受けたのが、大学院に進んでこの業界に入るきっかけになったのかもしれない。週1回の講義で、何曜日か忘れたが、とにかく1時間目の講義だった。授業が終わったら、図書館に行ってすぐに復習したものである。、
ある日、いつも通りに授業に行ったら、Y先生が現れない。携帯電話もインターネットもなかった時代で、リアルタイムで休講情報を調べるわけにはいかない。それで同級生のOとともに、キャンパス内にある公務員宿舎に、お住いだった先生を尋ねていった。呼び鈴を鳴らすと、奥様がでてこられて、まだ寝ているとおっしゃる。大学祭前後で休講になると錯覚されていたようだった。ともあれ授業だから起こしてくださいとお願いすると、すぐに起きてこられて10分で行くから教室で待っていろというようなことを言われたと記憶する。教員をたたき起こして授業をさせたのは、後にも先にもこの1回だけだ。
2012年9月某日
私とウナギの出会いは結構遅く小学校の高学年のころで、しかも新幹線の中であった。両親と広島に行くときかその帰りの車内でウナギ弁当を食べたのである。そのときウナギのうまさに感激して、このようなうまいものは生まれて初めて食べたと、周囲をはばからずに私は発言したらしい。父は、恥ずかしいからウナギくらいちゃんと食わせておけと母をずいぶんと叱責したそうである。母によれば、私はそれ以前にもウナギを食べたことがあるはずだというのであるが、私の記憶には残っていない。
母は戦後の食糧難の頃、祖父が川で釣ってきたウナギをずいぶんと食べたらしい。あまりにたくさん食べたので飽きてしまい、自分の子供に進んで食べさせようとはおもわなかったようだ。ウナギの魅力はその調理法に大きく依存し、うなぎをさばいて素人料理で食べても、さほどの感激を受けないと思うから、たくさん食べて食べ飽きたというのもわからないではない。実際、うなぎは万葉の昔から食べられていたもののなかなか普及せず、江戸時代に蒲焼が発明された後にはじめて各地で盛んに食べられるようになったらしい。
ウナギは世界中で食べられているが、日本で人気のある蒲焼きに海外にて出会おうとすれば、日本食の店に行くしかない。もっとも、日本で好まれるウナギと、海外で食べられるウナギの種類は同じではないそうだから、調理法だけの問題ではないのかもしれないが、このあたりは試していないのでわからない。
幼い頃の感動があるものだから、私は海外でウナギ料理を見つけると試しに食べてみるのであるが、同様の感動をうけることはない。もっともこれは感受性の衰えから来るものかもしれない。だが、これはうまいというウナギに出会わないのはいかんともしがたい。食事ではたいへん頼りになる中国でも、それまでに出会ったウナギ料理はいまひとつだった。
それが、最近ベニスでたべたウナギは、ちょっとうまかった。こいつは丸い胴体を炭火焼きにして、何かのスパイスを振りかけたという素朴なものだったが、悪くなかった。上品に脂がのっていて、注文した白ワインによくあった。してみると、調理法というよりはやはりウナギ本体の質の問題なのだろうか。今後の検討課題としよう。
2012年8月某日
いろいろと思い出してきた。
受験生だった頃の私は、午後3時半頃学校から帰宅すると、まずレコードを片面、大音量で聴く。これに20分ほどかかる。そのあと、「旺文社の大学受験ラジオ講座」の予習をする。時には「100万人の英語」の予習をする。その予習が終わるのが5時半頃で、それからTと走り、帰ってきてから風呂に入る。風呂から上がるとちょうど6時半スタートの「旺文社の大学受験ラジオ講座」が始まる時刻なのである。そう、わたしはラジオ講座を中心に受験勉強をしたのである。旺文社には、ラジオ講座を補強するような通信添削講座があって、それもやっていた。予備校には通わなかった。
「旺文社の大学受験ラジオ講座」は毎日1時間の放送で、30分の講義が2つある。講義は、過去の大学入試問題を一つ取り上げ、解答のポイントや点の取れる答案を書くこつのようなものを解説する。ほとんどの講師はどこかの大学の先生だったように思うが、予備校の先生だったのかもしれない。1月分のテキストが一冊になって書店で売られている。たしかB5くらいの大きさで、見開き2ページが授業1回分だ。当日の放送で解説される問題を、まえもって自分で解いておくのが予習である。
ラジオ講座にはいろいろと思い出があるのだが、不思議なことに講師の名前はすべて忘れてしまった。古文や漢文の口座は大変役に立ったと記憶している。数学の講義も好きだった。英語の読解の授業はなかなか良い一方で、英文法の授業はいかにも受験英語の機械的なもので、嫌いだった。かなり著名な講師が英文法を担当していたとおもうが、この人の語る言葉はとても英語とは思えなかった。
当時は本当の英語に触れる時間が希少だった。確かラジオ講座の直後の6時半から30分、100万人の英語という放送があって、これも時々聴いていた。こちらは大学受験むけの番組ではなく、もっぱら会話に重きをおく番組だったが、思うに好きな講師が何人かいて、その人がでるときの放送を聴いていたのだろう。それが誰だったのか、全く覚えていないが。
その後、夕食をとったはずだから、当時は7時ころから食事をしていたはずである。それから、9時から12時まで机に向かい、夜12時に就寝していた。翌朝起きるのは6時半である。
受験用のラジオ講座は、文化放送とラジオ短波で放送されていた。午後6時半から聞いていたのがどちらだったか覚えていない。もう片方は夜10時ころスタートだったように思う。初めのを聞きのがしたときは、後者を聞いていた。
なお、ラジオ短波は、現在のラジオNIKKEIの前身だ。当時から平日日中は株式市場実況、経済展望や市場動向を語る番組ばかりで、休日は競馬中継をやっていた。ところが、夜は受験生向けの番組をやっていたのである
2012年7月某日
私は3つの小学校に通った。3つ目の小学校で小学校を卒業したわけだが、両親がまだその近くに住んでいるから、いまでも時々そばを通る。
この小学校の校庭は今ではずいぶんと狭く見える。実際に少し狭くなったのかもしれないし、自分が大きくなったために相対的に狭く見えるようになったのかもしれない。
中に入ってみたいが、授業中にはもちろん入りにくい。子供をねらう不審者と疑われかねないからだ。とはいえ、子供が帰った後や、子供がいない休日は、門は施錠されていて、これを乗り越えてはいるわけには行かない。卒業生には少々ちかよりがたいのである。
しかし、私の記憶では、卒業してからも、私はこの小学校の校庭を頻繁に利用した。だいたい夕方だ。近所に住む、小学校で同級生だったTと、サッカーボールをもちこんでパスをしあったり、小学生用の小さなゴールをめがけてシュートをして遊ぶのである。
私は、中学時代にはもっぱら軟式野球をして、高校に進んでからは囲碁に熱中した。学校のチームにはいってサッカーを盛んにやったのは、小学校の5・6年生のころだけである。かたや、Tは中学高校とサッカー部に所属していたから、サッカーの技術においては完全に数段格上の人物であった。にもかかわらず、よくつきあってくれたものだとおもう。このTとはボールけりだけではなく、ジョギングもよく一緒にやった。これはお互いに高校三年生で、受験生だった頃である。夕方5時半頃から30分ほど走る。これはほとんど毎日のようにやっていたはずだ。
記憶がはっきりしないが、ボールけりのほうは週1・2回はやっていたはずだ。夕方から日が暮れるまでの30分ほどしたとおもう。しかるに、校庭の不正使用をとがめられたことはないし、いかめしく施錠された門を乗り越えて校内に侵入したという記憶は皆無である。昔は、なかなかおおらかだったのだろう。卒業生だから、顔見知りの先生たちが何人もいて、それで黙認してくれていたのかもしれない。あるいは、苦情を言われたものの、かまわず続けたのかもしれないが。
いや、何か注意をされたことはあるはずだ。一度、2つあるゴールのうち、民家に近い側のゴールが使わないようにといわれたことがあるはずで、いつのころからか学校の校舎に近い側のゴールだけを利用するようになったことを覚えている。それが先生たちと私たちの間で到達した妥協点だったのかもしれないが、こちらは覚えていない。。ゴールにボールが命中すると少なからず音を立て振動を起こすために、近辺の家に響いたためらしい。やはり小学生向けの規格でできている施設を、力の余った高校生2人が利用すると、不都合だったのであろう。
静まり返った小学校の校庭は、なんだか寂しく見える。周辺住民には結構なことであり、実際に私がもしそのあたりに住んでいれば静けさを喜んだであろうが。
2012年6月某日
土曜日、おきまりのボストン美術館鑑賞を済ませると、ボストンの中心部にあるチャイナタウンまで歩く。おそらくはNewbury streetあたりをBoston Commonに向かって歩いたのだと思うが、どこをどう歩いたのかはっきりとした記憶はないので、通り道は一定しなかったのかもしれない。チャイナタウンにたどり着くのは午後1時くらいになっていただろう。ここについたら「香港」という中華料理の店に入る。「香港」は地下1階にあり、レストランというよりは、食堂というおもむきである。殺風景な店内は20メートル四方ほどもあっただろうか。
店内には no tippingと大きく書かかれた紙が何か所かにはられている。チップ不要という宣言はすがすがしく好ましい。アメリカ生活で、最後までなじまなかったのがこのチップの習慣だからだ。たとえば、店内にうっかり置き忘れてしまったパソコンをウエイトレスが保管しておいてくれて、後日それを取りに行ったら、普段からたまっていた脂汚れまできちんとふき取ってあって見違えるようにピカピカとしていたときに、感極まってチップを渡すというのならわかる。ドラマだとこういうところから恋が芽生える。他方で、食堂に入って店員が注文をとって食べ物を持ってくるのはしごくあたりまえのことで、これが何も持ってこなければ約束違反だと怒らなければならないのに、その初期契約がそのとおり実行されただけので、料金表にはかかれていないチップなるものを、適切な金額はいくらなのかと煩悶しながら渡さなければならない。
あえて理屈を言えば、アメリカでは、店員が接客を丁寧にするというのはあくまでオマケであって、基本契約の一部ではないということだろう。つまり、店側が保障するのは、要求された食事を制作して注文した人に運ぶことだけで、それがどのように運ばれるかは契約外のことである。さらにいえば、食べたものは自分で片付けろとは言い出さないというのも基本契約の一部であろう。実際、自分で取りに来てあとで自分で片付けろというタイプの契約はセルフサービスとよばれるもので、これは基本契約とことなるから、店のどこかに当店ではセルフサービスであるとうたってあるはずだ。「香港」の場合、セルフサービスではなくチップ不要とかいてあるのだから、この店では厳格に基本契約だけが有効であると高らかに宣言していると考えてよいだろう。
看板に偽りなしで、客が現れても、「香港」の店員は非常に無愛想である。客が来ても、テーブルに案内しようともしない。なので、店にはいると、空いている場所にさっさと座る。いつも同じ背の高い女性店員が注文をとりにくるが、これは私の現れる時間が毎回同じで、しかも毎回同じような場所に座るからだろう。そして私は毎回「固い焼きそば」を注文する。気分によって、具は牛肉か豚肉を選ぶ。牛肉だと5ドルで、豚肉だと4ドル50セントだったと思う。女性店員は、放り投げるかのようながさつさで、皿を目の前においていく。量はかなり多い。できたてで熱い。麺はパリパリとあぶられて香ばしい。今思えば、多分かなり下品な味だったのだろうと思うが、非常にうまかった。
2012年5月某日
「わらしべ長者」が教科書になった。正確には,数研出版からでる平成25年度の高校国語教科書に、かつてダイヤモンド社の広報誌に書いた「わらしべ長者」という作品が、採用されたのである。
教科書の話があってから、元原稿を少々修正をしたので、かつてインターネットで公開されていたものとは微妙に違う部分がある。なにせ教科書には検定というものがある。ただでさえ余計な冗談を書く傾向があることを自覚しているものだから、青少年に不適切な表現を用いて関係者に迷惑をかけてはならぬと緊張して修正したからである。もっとも、これは数研出版から要請されたものではなくて、自分で気になっていたところを修正しただけなのであるが。幸いにも検定で不適切な表現が指摘されることはなかった。
この本には芥川龍之介の『羅生門』があり、太宰治の『富獄百景』と志賀直哉の『城之崎にて』も採用されているが、私の「わらしべ長者」は芥川よりはあとだが、太宰や志賀よりも巻頭に近い。私のほうが、太宰や志賀よりも芥川賞に近いということだろう。何せまだ存命中だから。日本経済学会の中原賞をいただいたとき、その受賞記念講演の冒頭で、自分がほしい賞は2つだけ、中原賞はその一つなので、残す一つはと芥川賞であると言ったら会場が静まりかえり、そのあと立ち直るまでに難儀をしたことを思い出した。なお、この宣言は冗談ではない。
なにはともあれ、多くの高校生に読まれてほしいものである。
読まれてほしいといえば、『戦略的思考の技術』の中国語版が出た。正確には、中国の某学生さんが、翻訳が出版されているのをインターネットで見つけ、それを私に教えてくれたので偶然発見されたのである。出版されたのは、今年の2月のようである。問い合わせたらサンプルが送られてきた。これが果たして問い合わせたから送られてきたのか、それともはじめから送る予定が遅れていたのかは不明である。
これで、『戦略的思考の技術』は、台湾語版・韓国語版・中国語版がでそろった。なにはともあれ、多くの人に読まれてほしいものである。
2012年4月某日
上海ではいつもSさんにご馳走になってしまう。悪いと思いながら、中国には面白くてうまい食べ物が多いから、ついつい注文してしまう。人間の性という物だろうか。
今回の目標はすっぽんだったのだが、メニューを見ていたら、蛇があった。蛇といえば、大分前に香港で食べたことがある。蛇のスープは香港の冬の名物である。食べたときは、しらずに半ばだまされて食べたのであるが、これはなかなかうまかった。よく、淡白な味のたべものの味を表現するときには、鶏肉のようなという表現をつかうが、それに従うとこれも鶏肉のような味である。グロテスクな体系からは想像もつかないほど淡白で上品な味だった。それ以来、もう一度食べてみたいとかねがね思っていたので、すっぽんの前にまず蛇を食べようとお願いした。注文してみると、これは冬のものでこの時期にはもうないという。
というわけで、予定通りのすっぽんに切り替える。養殖のものと天然のものがあって、天然ものは決して安くない。Sさんがせっかくだからと勧めるので、こちらもいい気になって天然ものにした。これも人間の性だ。生簀に泳いでいるやつをみつくろうと、それを奥の調理場にもって行って調理する。調理法は、調味料・香辛料と一緒にスープとして煮込むというものだ。辛いスープを勧められたが、辛くて味が分からないのも困るから、白いスープにする。日本だと、コラーゲンのスープとでもいうのであろうか。
かつて某出版社の人に、「大吉」ですっぽんをご馳走になったとき、たいそううまかったが量が少なかったのを覚えている。今回は量が大変多くて、食べきれないほどであった。すっぽんの肉の味も表現が難しい。これも獣肉にしてはたいへん淡白なのだが、しかし鶏肉のような味とは形容しがたい。いまのところ、すっぽんの味としか書くことが出来ないが、もっと何度も食べればましな表現を思いつくだろう。
大吉のときはたしかすっぽんの生き血というのもやったが、この上海の店では血は飲まないようだ。もっとも、これはうまいものではないから、あっても飲むつもりはなかったが。
2012年3月某日
留学1年目、土曜日の午前中にボストン美術館によく行った。このころほど美術館に通ったことはない。天井の高い古い造りの建物の中で、備え付けられている長椅子に座って絵を眺めるのが好きだ。ただし、私にはあまり芸術的なセンスはなく、何が良いものなのかはさっぱりわからないから、眺める対象になる絵は何でもよい。
土曜日の午前中に行く理由は、その時間だと入場料が無料だからである。土曜日は洗濯の日でもあったから、朝から忙しい。当時住んでいたChild Hallという寮の地下にある洗濯器や乾燥器を利用するが、これをすいている朝一番にまず片づける。洗濯器は1回50セント、乾燥器は15分あたり25セントくらいだったと記憶する。Tシャツも下着も7セットずつ持っていて、このとき一週間分の洗濯をするわけだから、逃すわけにはいかない。なので、前日の晩から乾燥器に残っている、誰のものか分からない冷えた洗濯物などは、男物だろうが女物だろうが容赦なく外に出す。
そして午前10時ころに出かけ、Harvard Squareから地下鉄を乗り継いで、ボストン美術館に到着するのは11時少し前、まだ入場無料の時間帯という寸法だ。もっとも、入場無料といえ、なにがしかの寄付金を支払うよう勧められていたように思う。私には寄付をした記憶は全くなく、自分が学位を取って金を稼ぐようになったら、出世払いで寄付はたっぷりしますと心に決め勝手に許してもらっていた。ただし、卒業してボストンを離れて以来、いちどもボストン美術館には行っていない。
美術館では1時間ほど過ごす。毎週のようにいくので、全館を回ることはない。絵なら何でもよいといったが、それでも好きな絵はあって、農民のダンスを題材にしたルノワールの大きな絵と、ピカソが青年期に描いた人物画は必ず数分眺めた。そのルノワールの絵は、美術館で販売している額入りプリントのレプリカまで持っていて、これは今でも私の研究室にあって、机の前の壁にかけてある。不幸にも額のガラスが破損してしまい、絵も色あせてしまったが思い出が深く捨てるわけにはいかない。ただし、これは自分で購入したものではなく、留学1年目に知り合いになった数学専攻のT先生からまとめて買い取った家財道具の1つである。
T先生はたしか1年間の在外研究というような形で、日本から来ていた。インターネットの黎明期で、日本の情報を仕入れるのがまだ大変だった時期である。日本の新聞を取ることもできたが、何しろ高い。それで、アジア研究の図書館に入っている朝日新聞を、1週間に一度のペースで読みに行くわけだが、そこでT先生とよく出会って知り合いになったのである。
当時、私の奨学金は月500ドルで、それですべてをやりくりして生活していた。寮費が月200ドルで、夕食は月曜から金曜までDudley Houseという大学院生用の施設で食べ放題のプランが月あたり100ドルを少し超えるくらいの値段だったから、これらを払うというkらも残らない。今とは物価も為替レートも違うので比較が難しいが、その頃でも恵まれた奨学金は月1000ドルをはるかに越えていた。私自身も留学3年目には奨学金とティーチングアシスタントの給料で月額1800ドルほどの収入があった。現在、留学する学生達は、年額3万ドル近い奨学金をもらっているようだから、おそらく私の月500ドルというのは、現在なら年額1万ドルくらいになるのだろう。
ともかく月500ドルはどのような基準で考えてもいかにも少ない。これで生活しているのだとT先生に話すと、「カジイ君、それは奇跡だよ」といたく感激してくださった。それで、彼が帰国する際に、立派な机にベッド、炊飯器や、そのほかこまごまとした生活必需品を、全部で100ドルでゆずってくれたのである。留学2年目からは寮を出て民間のアパートに移らなければならないのに、家財道具らしいものを何一つもっていないという状況だったから、これは本当に助かった。
月500ドルでは確かに貧しかった。しかし、留学1年目は授業の予習復習や課題をこなすのに朝から晩まで時間を使っていたので、不思議にもこれで十分だった。この一年間は本当によく勉強したもので、その質量ともに受験勉強の比ではなかった。体重も10キロ減った。だが、このあたりで勉強量はピークに達してしまったようだ。私の小物たる所以である。
全部で100ドルと書いたが、もともと、T先生は、机は高かったので50ドル、あとはタダでもいいから好きなものを持って行けとおっしゃったのである。ところが彼のアパートで実際にもっていくべき品物を物色していたとき、このルノワールの絵を見つけた。これ幸いと持ち出そうとしたら、これは彼もお気に入りで、日本に持って帰るからダメだとおっしゃる。それでもしつこく私がおねだりするものだから、最後には根負けして、では絵も含めて一切合財100ドルということにしようと交渉がまとまったのである。
この絵はいつも目の前にあるもので、いまや眺めるという感覚もうせてしまった。久しぶりに目に留まったら、こんなことを思い出した。
2012年2月某日
小学生低学年で、北海道に住んでいたころである。沼地でドジョウをとってきた。10匹以上あったはずだ。果たしてドジョウは簡単に飼えるものなのかどうかわからないが、子供は自分の獲物を飼ってみたくなるものである。家にあった水槽に水を張ってドジョウを入れた。腹が減っては困るだろうと、金魚の餌を与えた。なれない水道水にひたされ、得体の知れない食べ物をあたえられた哀れなドジョウたちは、かなり衰弱したことだろう。
そのすぐ後で、沼地でこんどはヤゴをみつけた。普段から昆虫図鑑を読みこんでいたから、この小昆虫を水中に発見したとき、ヤゴであることはすぐにわかったのである。ヤゴはトンボの幼虫で、親とは違い水中で生活する。数匹捕獲してもちかえったが、こいつもどのように飼うものかわからない。採取地から考えるに、水に入れておかなければならないことは明らかにみえたので、とりあえずドジョウのはいった水槽に放り込んでおいた。
一晩たって水槽を見ると、気のせいかドジョウの数が少なくなったようだ。もう2・3日たったらほとんどいなくなってしまった。ヤゴはドジョウを食べるのである。哀れなドジョウたちは、劣悪な環境と空腹に苦しんだ後で、食欲旺盛なヤゴたちの餌食になってしまった。ドジョウを食べ終えたヤゴたちがその後どうなったか、私は覚えていない。
人間もドジョウを食う。私が次に出会ったドジョウは、調理されたものだった。たしか、留学の1年目を終え、一月ほど帰国していたときのことだ。大学の同期の男と久しぶりに会った。バブル華やかかりしころである。彼は当時はやっていたイタリア料理の店に行こうとしていたようだが、混んでいて予約が取れなかったと謝ったのを覚えている。イタリア料理は大人気で、どこもいっぱいだそうだ。流行の場所につれていってくれようとする心意気はありがたいが、アメリカから帰ってきているのにイタリア料理はなかろう。それで、すいていて日本っぽい店という条件であたりを探したら、ドジョウ料理があったのである。
なにを食べたかはっきりとは覚えていないが、コース料理のようなものをたべたのだろうとおもう。ドジョウを食べたのは、そのときが初めてだった。変わった味というのはわかるが、それほど美味というものでもないというのが印象だ。ドジョウは濁った沼地をこのむくらいだから、味も泥臭いように思う。それで調味料香辛料を多用するわけだが、ドジョウを味わっているのか調味料や香辛料を味わっているのか判然としない。
この日もっとも印象深かったことは、ドジョウを食べた後におきた。酒を飲みにもう一軒いき、たぶん時刻は11時頃になっていたと思う。電車の時刻も心配なので、そろそろ帰ろうという段になって、この男がタクシーで帰るといいだしたのだ。大学院生の私にはみじんもおきない発想である。そして更に驚いたことに、大通りにでてみても空車のタクシーなど一台もなく、5分ほど待っていても全くらちがあかないのだ。この時間だとタクシーは拾えなくて困ると、彼が実に苦々しくいったのを覚えている。
泥臭い味とはいえ、ドジョウの味には不思議な魅力がある。今でもうまいものとは思わないが、あると食べたくなる。京橋の駅前東側、京阪電車のガード下付近にある居酒屋には、ドジョウの唐揚げがメニューにある。一年中、いつでもあるのかどうかは知らない。頼むとバケツに入った生きたドジョウを網ですくって数匹取り出し、粉を振ってそのまま唐揚げにしてしまう。レモンを添えて出されるが、レモンをかけても泥臭くて下品な味だ。食べるたびに、やはりうまいものではないと思い知るのである。でも、こんどいったらまた注文すると思う。なんとも不思議で、魅力的な味だ。
2012年1月某日
こんな夢を見た。
エレベーターにのっていたら、ピーンという音がした。乗っている誰かの今日のエネルギー消費量が円換算で1000円をこえた証だ。
職場をでるとき自分のメーターを見たときはまだ500円にも達していなかったし、エレベーターも空いたのはわざわざみおくったくらいだから、私がならしたのではないはずだと思いきや、左腕を見るとメーターの赤ランプが点滅していた。メーターが鳴ったからといっても、要は金を払えばすむことだから大たいしたことはないが、1000円未満は切り捨てだから、ちょっと悔しい。帰りの電車が空いていて、ゆったりすわってかえったのがよくなかったのか。
しかし、乗り物のそうエネルギー消費量を、単純に乗車している人たちに当分に割り振るという仕組みは、どうも納得がいかない。そもそも電車が走るかどうかは乗客の数には依存しないのだから、電車が混んでいようと空いていようと、エネルギー消費量に大差はないはずだ。これではエネルギー節約のインセンティブにはならない。
もっとも、最近ラッシュ時でも空いている電車が増えたのは、個人負担が大きくなる空いた電車を敬遠する人がふえたからにちがいない。してみると、私がしたことは、要するに追加料金を支払って、席を確保したということだ。
ビールの缶を開け、はじめから1000円払うつもりで、明日は空いた電車に乗ってやるかなどとかんがえつつビールを飲み干そうとしたら、目が覚めた。