2010年の独り言

by 梶井厚志

2010年12月某日

NHKで、とうがらしを焼酎につけておくと辛みが抜け、だしとして使えるというようなことを言っていたので、一度試してやろうと考えていた。ただし、日本のとうがらしはなかなか高価であり、おいそれと実験できない。そこで、ソウルに行ったときに、とうがらしを粉にしたものを仕入れておいた。品質など全くわからないので、ちょうど真ん中ぐらいの価格帯のものを買った。重さははっきりしなかったが、500グラムほどであろうか。値段は700円ほど。予定通り焼酎を買ってきて、とうがらしの粉をつける。焼酎は見る見る赤く染まり、壮観である。それだけではなく、なにやら独特の香りが空気中に放出されたようで、外から帰ってくると家の中のにおいがいつもとはかなり違う。

ざるでこして、とうがらと焼酎を分ける。焼酎の方に辛みが移り、とうがらしにはうまみが残るという算段だ。しかし、とうがらしをにてみても、なかなかだしと呼べるような味にはならないので、がっかりした。やはり、ほかのものとあわせて食べるものだろう。量が多いのでなかなか食べきれない。

とうがらしは安かったが、焼酎は安くはない。とうがらしのエキスを吸い出したと推測される、真っ赤になった焼酎は、未だに手つかずである。はれさて、どうしたものか。


2010年11月某日

北朝鮮のヨンビョンド砲撃の翌日、私は出張でソウルに出かけた。私は、これをきっかけに両国が戦闘状態に陥るとはみじんも思っていなかったので、むしろソウルの大学人たちがどのように反応しているのかを知るよい機会だと思っていた。

出かけるとき関西空港で、新聞記者とおぼしき男に、このような非常時にソウルへ出かけるのは心配ではないのか、職場に頼んで出張を延期することはできなかったのかと聞かれた。外務省から渡航延期勧告がでたのかと聞き返すとそのようなことはないという。なので、わたくしは日本国民としてわが国の外務省を信頼しているから、渡航をやめる理由が見つからないと答えた。この男がかような質問をしたのは、私だけにではなかろう。いまから飛行機に乗ろうというものに、どうして不安をあおるような聞き方をするのであろうか。飛行機は満席だった。

予想通り、ソウルは全く平穏であった。もちろん、攻撃を受けたのは大きな衝撃であり、これにどのように対応すべきなのか、さまざまな意見が飛び交っているのは、韓国語を解さない外国人にもすぐにわかった。何かと、有意義な旅であった


2010年10月某日

日本経済学会の常任理事になってから、2年半。本来は3年任期だから、この秋の学会でほぼお役ごめんになるはずが、このたび学会が法人化されるために、留任することになった。正式には役職名が変わるらしいが、実質的には役目を引き継ぐということ。あと3年、計6年もやることになった。まあ、誰かがやらなければならないことだし、理事の中でも私の担当する役目は一番気楽なものである。また、このうな役をおおせつかっていなければ学会の構造など学ぶこともなかったから、まあよしとしなければなるまい。ただし、学会の大会時に 会議が夜あるものだから、大会夜の活動が非常に強く制約されるのがつまらない。もとより、故障を入れるべきことがらではないのだが。

なお、心配している人たちのために一言。 テレビや映画で、ナントカ学会の理事人事をめぐって人々が争うのは、そこに利権があるからだ。わが学会では、その種の争いがおこらない。利権がないからである。


2010年9月某日

中国に行ってきた。今回は上海と北京で学会出席。

上海では、万博見物をしようかと考えたものの、話を聞くと、とにかく人がいっぱい出ていて入場すらたいへんとのこと。人気のある展示には、5−6時間並ばないと入れないらしい。しかも、猛暑である。到底見物できる状態ではないと判断して断念した。

1970年の大阪万博を見物した、おぼろげな記憶がある。おそらく母か叔父に連れて行ってもらったのだと思う。この時は、米ソ冷戦の真っただ中で、米ソが競うように出し物を持ってきていたはずだが、詳しくは覚えていない。アメリカの最大の呼び物は、アポロが月から採取して持ち帰った月の石であった。しかし、これをみるためには数時間も並ばなければならなかったはずで、子供のころから辛抱の足りない私が並んだとは考えられない。実際、月の石を見たという記憶はない。


2010年8月某日

今年もSWETで北海道にやってきた。これがあるから、8月に授業などやるわけにはいかないのだ。

ところが今年の異常な暑さは北海道にも伝播し、滞在中に札幌でなんと35度を記録した。京都であれば何でもない数字で、しかも夜になればそれなりに温度は下がるが、これでは確かに夏の北海道とはいえない。

今年は釧路沖のサンマが不漁で、サンマは高くて味が悪いというのでがっかり。イカは良い。残念だったのは、毎年恒例にしていたサッポロビール園に行けなかったことである。週末で人が多かったのに加え、この暑さでビール需要が増大したためであろう、予約がいっぱいで入れなかったのである。私の感覚では、サッポロビール園は広大な場所で、ここが予約で一日中いっぱいという状態は想像できないのだが。来年は気を付けなければ。


2010年7月某日

これだけ暑いところで、授業をするのはどう考えても効率的ではない。冷房を入れるにしても、たいへんなエネルギー消費量だ。お役所のお達しで、来年からはさらに授業期間が長くなり、下手をすると8月にはいっても1学期が終わらなくなるようだ。

十分な授業時間の確保というのが、期間延長の大義名分である。これに面と向かって反論する気はないが、授業時間の確保のために8月まで授業をするというのは驚くべき愚策である、それよりは、大学は祝日でも営業して授業時間を確保すべきであろう。ゴールデンウイークを廃止すれば、それだけで1週間浮くし、そもそも学期がスタートしたばかりのこの時期に一週間休みが入ること自体が、授業の生産性を著しく下げているのだ。

そもそも、諸悪の根源は4月に新学期がスタートすることにある。少しでも現場の授業を考えたことがあれば、3月に開始したほうがはるかに好ましいことがわかるはずだ。3月に始めれば、国民の祝日を堂々と祝いつつ授業時間を十分に確保しても、6月末に授業は終了する。しかも、ゴールデンウイークはちょうど1学期の中間に位置することになり、このあたりを目標に中間試験などをすれば、一息入れられて大変好ましい。6月末や7月初めに多い海外の学会にも行きやすくなる。


2010年6月某日

韓国で飲む酒は、発泡形にごり酒のマッコリと、焼酎が基本だ。

マッコリはアルコール分が低く、たいそう安い。品質によって値段は違うのであろうが、コンビニでみると1リットル入りくらいのプラスチック瓶で、日本円にして200−300円くらいのものである。これを飲むと頭が痛くなるという日本人を何人か知っているが、おそらくこういう人たちは日本のにごり酒でも頭痛がするのであろう。幸いにも私はにごったものでも澄んだものでも頭が痛くなることはない。もっとも、限度を超えて飲めばその限りではないのだろうが。

韓国では昨年から米を原料としたマッコリが、たいへんな人気だそうだ。もともと、マッコリは米を原料としていたのだが、朝鮮戦争後のコメ不足のおりに、米から作ることが法律で禁止されてしまったそうである。その法律が最近見直され、古き良き味が復活したというわけだ。

焼酎は軽めのものが人気で、コンビニで売っているような普及品だと、アルコール度数は10−15%くらいである。なので、これはワインの感覚で飲める。食事の友としては、私にはこの程度のものが好ましく思えるし、実際によく口に合う。日本酒も、もう少し度数を下げたほうがよいというのが私の意見だ。もっとも、焼酎の度数が下がったのは最近の傾向であり、もともとは日本の焼酎以上に度がつよい物が好まれていたらしい。韓国の酒豪たちに言わせれば、最近の低アルコール度数焼酎の流行は、国民が軟弱になったという嘆かわしい兆候だとのことである。

追記 2010年9月: 韓国にいったので焼酎のボトルをよく見たら、アルコール分(と思しき表記)は19.5%となっていた。口当たりがよいので、たくさんのめるから、てっきり弱い酒だと思いこんでいたようである。

2010年5月某日

ヨーロッパから帰国した。今回は、アイスランド火山噴火の影響をもろに受けて、たいへんに苦労した。初めの目的地はマドリッドであった。日本からの機上でのニュースで、アイスランドの噴火のことを知り、国の財政が破たん状況にあるかの国にとっては、全く踏んだり蹴ったりだなとおぼろげな感想をもったのだが、まさか自分に関係があろうとは全く思わなかったものである。

マドリッドの後、パリからベルギーという旅程であったが、何せフランスの空港が閉鎖されているので動きようがない。マドリッド滞在を伸ばして対応する。改善のめどは立たないので、予定をキャンセルして、最終目的地であるベニスに向かうことにした。ところが肝心のベニスの空港も閉鎖されてしまって立ち往生である。それでは陸路を取ろうと思い立ち、高速鉄道でバルセロナへ。ところがけしからぬことにフランスの鉄道がこの非常時にストライキをやっているため、イタリア方面に行く列車はすべてキャンセルになっている。かの労働者たちには、かならず神罰が下るであろう。国際バスの券売所には見たこともないような長さの長蛇の列だ。

そこで海路をとることにした。バルセロナからイタリアのジェノアまで、フェリーで移動したのである。昼過ぎに出向して所要時間16時間強で翌朝到着する。一泊2日の旅だ。ひょんなことからすることになった地中海の旅を楽しもうと思いきや、ここ数日の騒動で疲れていたのと、ようやくめどがついて安心したためだろう、早めの夕食後に眠気に襲われ、気づいたらジェノアについいていた。

それにしても、このような騒動の後、コロンブスの生誕地であるジェノアに、海から到着するというのはなかなか趣がある。ジェノアを見物した後、鉄道を乗りついだ6時間の旅の後、ベニスには夜到着。ただし、閉鎖されていた空港は、同日から復旧したとのことだった。


2010年4月某日

どこに行っても、飲食は大いなる楽しみだ。韓国も例外ではない。ただし、私は辛いものがいけないので、韓国では注意を払わなければならない。とにかく赤いものは控える。安全なのは焼き肉のようなものだが、それだけではつまらない。韓国の宮廷料理というものをごちそうになったが、これはなかなかうまかった。第一、口の中が焼けるほど辛いものはない。それに、強烈なニンニク臭もない。こちらを気遣ってそのように注文してくれたのかもしれないが、全般に食材の香りうまみが生きていて美味である。医食同源という韓国料理の基本思想を体験させてくれる。

そもそも辛みとニンニクを効かせた料理は、比較的最近のものであるとのことである。トウガラシについては、豊臣秀吉の朝鮮侵略のときに、朝鮮人を困らせようと日本人が持ち込んだのだが、韓国の気候風土に合ったもので朝鮮人は喜んだという説があるそうだ。この時代からトウガラシが用いられたにしても、トウガラシを大量に使うという料理が流行したのは比較的新しく、現在のようになったのは朝鮮戦争後ではないかということを聞いた。ニンニクについても、大量に使うようになったのは朝鮮戦争のあとからではないかという。これらの説の真偽はともかく、少なくとも、朝鮮戦争よりもはるか昔に確立した宮廷料理では、トウガラシとニンニクは体に優しい適量が用いられていることの説明にはなる。


2010年3月某日

亜州大学の基礎講義は、かなり基礎的なところから積み上げてくれというものだから予定した2回の講義では到底終わらないことが判明。何度かに分けて連続講義とすることに決めた。教員が数名出席している。学生の受講者は少数だが熱心である。

ここの秘書は非常にてきぱきとしていて、さまざまな手配をたちどころにやってくれる。夜、問い合わせのメールを出すと、同日の夜中に返事が来ることもある。一日何時間働いているのかわからないが、全くあっぱれだ。学生全般にも、教員を敬うという精神があるように感じる。うわべだけなのかもしれないが。ともあれ、これだけ持ち上げてくれると、妙に気分がよい。韓国で教員をすると病みつきになってしまうかもしれない。


2010年2月某日

韓国の亜州大学にて、基礎講義をすることになった。元々は、中国の山東大学でやったサマースクールの時に知り合ったK氏が、大型プロジェクト資金が取れそうなので、金は出すからしばらく滞在しないかという話だったと思う。事情もよくわからないので、まずは視察も兼ねて研究発表などしに行こうという心づもりであった。ところが、ここは数理ファイナンスあるいは金融工学の専門家が多いところだが、経済学の方法論については詳しい人がいないとのことで、研究発表をそのままやっても受けるかどうかわからないとのこと。それならば、基礎講義をやってみようかということで落ち着いたのである。


2010年1月某日

こんな夢を見た。

見知らぬ国にいる。 道を渡ろうとして、車の流れが切れるのを待つが、次から次へとやってきて途切れることがない。 これではいつまでたっても渡れない、横断者がいるのだからだれかと待ってもよさそうなものなのにと思っていると、 幸いにも地元の人と見られる女性がやってきて、道を渡ろうとする。これならば車も止まるかと思いきや、そんなことはない。 激流のごとき車の流れは続いたままだ。

女の人はどうするのだろうとみると、何ら考える様子もなく、車のあふれる道のなかに歩き出し、悠然と渡りはじめる。 あわててその直後にくっついて自分も足を踏み出す。我々二人の進む前後を、車がびゅんびゅん通り過ぎるが、衝突はしない。とうとう渡り切った。 背中は汗だくになっている。

何か種があるのだろうと、女の人に聞くと、どうせ車がよけるからゆっくり堂々と渡ればよいという。 そんなものか、要するに日本人の自分はリスクに過敏になりすぎているということかと解釈した。

そのような悟りを開いた直後、自分の後ろで大きな音がした。道を渡る人をよけようとした車が、 わきを走っていた自転車にぶつかったのである。けが人は出なかったのか、と心配しているうちに目が覚めた。