Essay2004 A Kajii

2004年の独り言

by 梶井厚志

2004年12月某日

今日は朝から研究所内の大掃除がおこなわれている。 廊下で盛んに強力掃除機の音がしていて、人の会話も聞こえないほどだ。 ところが、この音だと不思議に気にならない。 「必要な音」は耳に優しいということだろうか。

そういえば、海外出張を終えて帰ってきたら、研究室の上のほうで 「ごりごり」というモーター音がして、これが非常に気になる。 机に向かっていると、頭の右上のほうから聞こえてくるのである。 どうやら犯人は誰かの研究室に備わっているエアコンの室外機の音らしい。 私の隣りの研究室のエアコンもかなりの音を立てるが、当の本人は 現在アルゼンチンにいるはずでこれはおかしい。 実際に調べてもらうと、当然のことながらこちらは停止している。

それで自分の真上の住人Hに電話をかけると、どうやらここが犯人らしいと いうことになった。彼はいたく恐縮して、以降暖房をつけずに寒さに堪えているようだ。 京都の冬は大して寒くはないから、まあそのくらいのほうが健康によかろう。私もこの冬はまだ暖房を使っていない。

ところが、実はまだ「ごりごり」音はしてくるのである。一体どこから聞こえてくるのだろうか。 こういうわけのわからない音が一番こまる。


2004年11月某日

「負け犬の遠吠え」

学園祭も近づき、応援団や軽音楽部らしき団体の騒音も大きくなってきました。 応援団のタイコは毎日のように轟音をとどろかせています。 この音響と付き合っていると私は何にも集中できないので、 しばらく海外渡航します。学園祭が終わったら帰国します。

学園祭以外のときでも、 応援団の練習日は原則火曜日と木曜日で、夕方5時ころからぼこぼこ音を立てます。 3階にある私の研究室では、防音ヘッドフォンをつけ音楽をかけないと、私は耳鳴りがして勉強できません。 私の授業が火曜日の夕方遅く、しかも教室を研究所地下の部屋に指定しているのはこのためです。 ミクロ・ゲーム理論研究会が1階の部屋で木曜5時から始まるのもこのためです。さらに言えば、 研究会のあと宴会に出かけ酔っ払ってしまうので、騒音も気にならないというすばらしい戦術なのです。

せめて迷惑をかけている罪滅ぼしに、近隣道路公園の掃除、民家の植木の手入れの手伝い、研究所の窓拭き などして欲しいものです。そうすれば、一週間に6時間ならまあ我慢してやろうかい、 という気持ちも生れてくるというものです。 ところが実際は、 気持ちを逆なでするかのごとく、 応援団の諸君は研究所の教員に学園祭で大騒ぎするための資金カンパを求めにやってきました。 そのときたまたま私は不在だったことがまことに残念です。

ところで、学園祭では「ミス&ミスター京大コンテスト」を計画中だそうで、 これは京大学園祭史上初めての試みだそうです。 一方で、開催には反対する学生団体があって、本当に開催されるかどうか、 現時点では不透明とのこと。 しかしこれくらいでは切り込み不足といわざるを得ません。 学園祭そのものの開催に反対する団体とか、学内での騒音に反対する 学生運動家グループなどというものがあれば、支援したいものですが。

追記:気のきいたことが書けずにすみません。これも太鼓でいらいらしていることの影響です。


2004年10月某日

翻訳権を売り渡してから音沙汰がなかったのですが、先ごろ「戦略的思考の技術」の 中国語(繁字体)訳が出版されました(2004年10月) 表紙はこんなかんじです。参考までに、 原本の表紙はこれです

タイトルの訳はこれでよいのでしょうかね。言葉がわからないので、なんともいえませんが。 日本語として読むと、誤解を招きそうです。背景が、ルーレットではなくて碁盤になっているのはよいとして、 白黒ともに空き三角の愚形になっているところも少し気になる。

追記: U君より情報:隣に 住む中国人の友人によると、中国語タイトルを直訳すると It is easy to understand `game' theory という意味らしいです。ここで、`game' と訳した博奕と いう単語は、化学を専門としている彼にとってはなじみ がなく、たぶん経済学における専門用語じゃないかと言 ってました。ちなみにトランプなどのいわゆるゲームは 遊戯と書くようです。

決定版:さらに台湾出身のKさんからの情報:「博奕は囲碁、将棋、トランプなどを意味します。 ギャンブルのゲーム、例えばマージャンも含まれます。 以前、game theoryは「遊戯理論」と訳しましたが、最近は「博奕理論」に訳すのが標準です。 どちらにしても、原題とは異なりますが、翻訳者は読者の関心をひくために、 原本の表紙に忠実に翻訳しなかったのではないかと 考えられます。」


2004年9月某日

「ミク戦」が増刷になります。次は第8刷。


2004年9月某日

私の電話にはボイスメール機能があるようだが、使い方がわからない。 その機能があるためか、市販の留守番電話は取り付けられないらしい。 私には一刻一秒を争う用事はまずないので、 留守中の電話での連絡が取れないのは気にならないし、 したがって携帯電話もスイッチを切っている時間のほうがはるかに長いのだが、 留守番電話が使えないのは困る。それは、私は電話に出るのがあまり好きではないからだ。留守番電話があれば、とりあえず 相手が話しているのを聞いて、相手が誰だか判断してから出ることができる。

私が電話に出たくない理由はいくつかあるのだが、そのうちのひとつは 勧誘電話や間違い電話がかかってくるからである。 勧誘の電話と話しをするのは不愉快なので、勧誘の電話とわかり次第 私はすぐに電話をきることにしている。こんな具合である。

「はい、梶井です」

「梶井先生。私、株式会社XXXのYYYでございますが、 本日は先生にマンション経営の…」

マンション経営という言葉が出たこのタイミングでガチャンときるのが、 正しいタイミングでありこの場合の作法といえるだろう。電話の相手にとっても 脈のない客と話しをする時間は1秒でも無駄であるはずだ。 実際、電話詐欺にあわないためにはこれが最善な方法らしいので、 読者にも勧誘電話にはこのように余計な挨拶をせずにタタキきる習慣をつけることをお勧めする。

さて困るのは間違い電話、いや間違い電話らしい電話である。 例えばこんな調子で電話がかかってくる。

「はい、梶井です」

「M先生ですか?」

「いいえ、違います。どなたですか?」

「M先生につないでください」

「私はM先生の秘書ではありませんが。どなたですか?」

「ここはM先生の研究室ではないのですか。あなたは誰?」

「いいえ。こちらは梶井研究室です。あなたこそどなたですか?」

「ではM先生の電話番号は何番ですか」

「存じません」

すると、このあたりで突然会話が終わり、相手はガチャリと電話を切るのである。 この手の人はいつまでたっても、まず間違いなく名を名乗らないから不思議である。 これが 勧誘電話ならばためらいなくタタキきるのであるが、 この種の電話は、ひょっとするとどなたか高名な先生様がM先生に 電話をかけられているかもしれないと思い、M先生に不利益になってはなるまいと私は恐縮して、 つい会話をしてしまうのである。しかし、その後少なくとも10分間は私は不愉快になり、 悪いとは思いながら電話をとらずに秘書室に転送する設定にするのだが、 そういうときに限って必要な電話がかかってくるものでる。そして私は再び反省して 転送設定は解除されることにある。この繰り返しである。

というわけでついに私は誓いを立てた。こちらが名乗っても名乗り返さない電話は 今後即座にタタキきる。


2004年8月某日

競技ゴルフにはストローク・プレーとマッチ・プレーの2種類がある。 ストローク・プレーでは何ホールかプレーしたあとで、打数の合計が最少なものが 勝者となる。一方、マッチ・プレーでは1対1で、1ホールごとに勝敗を競い、 勝ったホールの数が多いほうが勝者になる。 そのため、全体の勝ち負けを決めるためには、各ホールでの打数そのものは 問題ではない。 そこで、すでに負けが決まっているとき、 相手に無駄な球を打たせることもないので、 自分の敗北を認めて次のホールに競技を進めることができる。 これをコンセッション(降参?)という。

見方を変えると、最後にホールへ球をいれる 行為を省略することを許すということになるから、 「OK、もう打たずに次の1打で入ったことにしていいよ」という意味で、 これを俗に「OKボール」ともいう。 つまり、相手が4打うち終わったところでOKを出すと、 相手はもう打たずにボールを拾い上げ、そのホールは5回打ったと記録するわけである。

「OKボール」は下手なアマチュアのプレーをスピードアップするためにも 使われる。短い距離のパットでも、気持ちを集中させ、狙いをつけて構え、 球を打つという段階をいちいちこなすとそれなりの時間がかかる。 だから、1打と数えるものの、打つこと自体を省略すれば、それだけ ゲームは早く進行するのだ。 おおらかなパートナーたちとプレーすると、残り1以上あっても 周囲からOKの声がかかったりする。これは日本だけではなく、程度の差こそあれ アメリカでもイギリスでもある習慣のようだ。 ところが、実際のところ、 プロの真剣勝負トーナメントでは、残り2メートル弱の長さのパットが入る確率は 9割くらいらしい。だから OKボールという制度は、ゲームのスピードアップだけではく、実は スコアをアップするのにも貢献しているのだ。

もちろんOKボールは慣習に属することなので、 残りが10センチであるからといって OKを出さなければならないという義務はないのだが、OKを出し渋ると、 なにやらいやな性格の人間だとも思われるらしい。 だからアマチュアの遊びならば、 まず気前よくOKを出したほうがお互いのためではある。 しかしよく考えてみると、ゴルフのゲームとして考えれば、 最後の一打は他の打数と同様に重要なはずである。 プロが一番しびれるのは、1メートルから2メートルほどの最後のパットなのだ。 私もゴルフをしていたころは、このシビレル感覚が結構好きだった。 その部分をなくしてしまうOKボールの「制度」は、 ゲームの興味を半減しているというのは、言い過ぎであろうか。

さて、それを踏まえてプロ野球の中継について一言。 私は試合終了まで放送されることがわかっているテレビ中継しか見ない。 昨年は大阪の自宅で、 阪神の試合を試合終了までやっていたサンテレビが受信できた。 そのため阪神の試合をよく見たが、 京都に引っ越してからは自宅ではサンテレビが入らないので、ちっとも見なくなった。 私がそうする理由は、野球の一番面白いところは9回の攻防だと思うからである。 野球の大きな魅力はゲーム時間に制限がないことで、どんな状況からでも 一発逆転の可能性が残されている点ではないのだろうか。 それを目前にして、放送時間切れです、はいさよならといわれるのは、 せっかく育った自家製のとうもろこしが、 バーベキューにして食べる前日にカラスにくい散らかされる以上に悔しい。 だから、途中で終了する可能性があるような中継は見たくないのだ。

そこで提案だが、プロ野球に「OKゲーム」を導入したらどうだろうか。 テレビの放映時間が終わるときに負けているチームが降参するという意味で、 中継が終わってもたらたら残りをプレーすることを省略して、 そのまま勝ち負けを決めることにすればよい。 そうすれば、テレビを見ていて一番面白いところを もぎ取られる不快感はなくなる。また、中継が中途半端に延びて、 せっかくタイマーをセットしておいたドラマが録画できていないという悲劇もなくなる。

しかも、OKゲームを導入すると、野球のゲーム自体にも次のような妙味もうまれる。

アナウンサー: 「9回ウラ、2アウト2塁3塁の場面で、1点を追う巨人の攻撃という場面ですが、 まことに申し訳ありません。放送時間が5分をきってしまいました。最後までお伝えできるかどうか… あー、阪神やはり監督が出てきました。」

解説: 「これは審判に質問ですね。今の、ピッチャーの牽制球がランナーに当たってはね返り、 ベンチに飛び込んだ間にランナーが進塁したプレーについてでしょう。 まったく絶妙のタイミングで出てきましたね。よく野球を知っていますよ、彼は。」

アナウンサー: 「阪神はOKゲーム狙いじゃないんですかぁ? 巨人ベンチ、タオルを振り回して怒っていますねぇ。阪神、少しやり方が汚くないですかねえ」

解説: 「いや、ランナーの進塁がまずいプレーだったんです。 あのような場合は、進塁せずに1塁2塁のままでとまっていなければ」

アナウンサー: 「どうしてでしょう。2塁3塁になれば、1打で逆転できるじゃないですか」

解説: 「あんなふうに進塁したら質問する口実を与えるに決まっているじゃないですか。 監督はルールブックまで持ち出して質問しますよ。 時間がないんですから、ここは1,2塁でとまってプレーを急ぎ、次の打者の一発にかけるしかない場面です。 プロだったらね、そんなことはいつでも頭に入れておくもんです。 野球の基本ですよ、基本。」

アナウンサー: 「阪神の監督、いま納得の表情に笑みをたたえてゆっくりと引き下がります。 あー、もう放送時間は1分を切りました。そろそろお別れの時間です。」

解説: 「ここでOKでるんじゃないですか。このバッターはどうせ敬遠されるからね。 もう打っている時間はないでしょう。 勉強不足ですよ、巨人の選手は。相手を甘く見すぎです。プロとして恥ずかしいね。」

アナウンサー: 「あ、やはりOKですね。審判が今OKゲームを宣告しました。 東京ドームでおこなわれました巨人阪神の20回戦、阪神9回裏OK勝ちです。 それではみなさん、さようなら」


2004年7月某日

京都大学から今出川通りを西に行くと、出町柳で鴨川に出会う。 鴨川はその後京都中心部のにぎやかな地域をゆったりと南へ流れてゆくわけだが、 出町柳はその鴨川の基点でもある。 ここで、北の山から流れてくる賀茂川と高野川の二つが合流してひとつになり、 名前を鴨川と変えるからだ。

鴨川を渡る賀茂大橋から、北側に広がる下鴨神社や背景の北山を見渡すと、 京都が山に囲まれた街であることがいまさらのようにわかり、風情がある。 春から夏にかけて、この景色にもずいぶんと緑が深まった。 橋をわたった所にカフェがあり、そのテラスでワインなど飲みながら、 今出川通りを行き来する車の騒音にまぎれて、小さいもののしっかりと聞こえてくる 川の流れの音に耳を傾けるのはさらに悪くない風情なのだが、 こう暑いとそれも敬遠がちになる。

橋のすぐ北側、橋とほぼ平行に、川幅50メートルほどの鴨川を渡る飛び石がある。 川の威力とはたいしたもので、これだけ暑いさなかでも、飛び石にのるとかなり涼しい。 飛び石といっても、コンクリートで整備された人工の ブロックが並べてあるものである。幾つかは大きな亀の形をしている。

飛び石で流れがせき止められるから、それぞれの石の下流側50センチほどの場所では、 流れが滞留している。その穏やかな水の中にはめだかのような小魚が 涼しげに泳いでいるが、石がなければとても流れに立ち向かって泳げる大きさではない。 岸の近くには川の流れ自体が滞る場所があり、そのようなところの石の下には、 影の部分にザリガニがいる。

ある朝、10歳くらいの少年がそれをしげしげと眺めていたから、 中に入ってとってみたらよいと提案すると、 彼は意を決して靴を脱いで川に入り格闘し始めた。 私はしばらく外野から熱心に捕獲方法を教育指導していたが、 するりするりと逃げられて、 結局とれなかった。 なかなか元気なザリガニである。 うんうん残念だったと、 びしょぬれになってやや途方にくれた様子の少年をおいて私はすたすた立ち去った。 教員とはこんなものである。

そうしたら、自分の少年時代の経験と記憶がよみがえってきて、 石の下に隠れるザリガニを素手で追いかけて捕まえるのは 容易なことではないということをおもいだした。 つりざおにえさをつけて吊り上げるか、 あるいはザリガニが後ろにあとずさりして逃げる性質を利用し、 後ろに網を置いておいて前から手で追って追い込むのが常道なのである。 にわかハンターに素手でやれというのがどだい無理であった。

あの少年の絵日記には、白い帽子をかぶった妙なおじさんが登場するのだろうか。


2004年6月某日

「ヒーローでわかる日本経済」という本の「監修」という仕事をしたが、先日めでたくランダムハウス講談社より 出版され、書店に並んでいる。赤い表紙でB5版の薄手の雑誌風の体裁である。

実を言うと私はウルトラマンとゴジラ以降はあまり詳しくなく、 この本に登場するヒーローも、大半は見たこともきいたこともなかった。 監修を引き受けてからこれらを勉強したかというとさにあらず、まったく勉強しなかった。実際は、 本の後ろに紹介されているライターさんたちが企画してがんばって書いたものである。 本物のデータ、表グラフなども適度に入っている。 都合のよい解釈やこじつけも随所にあるが、そのおかげか歯切れがよく、まずまず読みやすいとおもう。 くだけたプチ昭和・平成日本経済史としてぱらぱらと読むのに適した本である。 高校の教科書よりはちょっと面白いかもしれない。

アニメヒーローを知らないだけでなく、私は日本経済史の専門家でもないので、 これに関する知識もごく一般の教科書に書かれている範囲をでない。 まあ、シロウトに毛がはえたくらいのものなのである。 そんな私に何ゆえこの本の監修が依頼されたのだろうと読者が疑問を持つのはもっともで、 私にもまったくもって不思議なことである。 馬鹿な雑文ばかり書くので、どうやら私の人間像は巷でずいぶんゆがんで認識されてしまっているようだ。私とて、人をだます気など毛頭ないから、仕事を引き受ける前、企画担当者には、 私はヒーローも日本経済も専門ではないと念を押した。結局それでもといわれて、つい引き受けてしまった。 もっとも、都合のよい解釈やこじつけは私の得意技ともいうべきところだから、 担当者はむしろ人を見る眼があるのかもしれない。

さて、私がした実際の仕事は、全体を読んで、いかになんでもこれは極端すぎるんじゃないの、 という発言を修正したということと、序文を書いたくらいである。 あと本の表紙に京大の「せんせい」の名前がどっかり座ることで本にハクをつける効果があろう。 これでお金をもらうのは詐欺のような話だが、京大の「せんせい」になるまで、私もいろいろな 投資をしてきたわけで、その投資への収益をうけとっているのだと理解して、 深く悩まないことにする。

ところで、この本のサブタイトルが「Hero Economy」となっている。 これはもちろん造語であるから、正しい表記というのは存在しないが、 語感はいかにも和製英語という感じではある。Hero economics, economics of the heroes, economy of the heroesなどのほうが,まだしももっともらしく聞こえるだろうか。 これには、半完成品が手許に来てから気づいたので、修正してはと持ち出したが間に合わなかったようだ。

まあ、そんな感じの本なのである。


2004年5月某日

偶然ということはあるものである.京都駅で新幹線を待っていたら、所長がやってきた。 彼は平均週に1回以上東京に出かけるらしいが、 私が新幹線に乗るのは年にせいぜい東京へ5往復というところであろうから、これは珍しい。

どのくらい珍しいかと概算してみると、京都から東京に行くのぞみ号は一日に約100本あるので、 年間のべ36000本ほど出ている。よって、この電車に私が乗る確率は5÷36000で、これは約0.014パーセントである。 一方、所長のほうは、週100×7=700本のうち1つに乗るとして、1÷700で、これは約0.14パーセントである。 さて大雑把に言って、この2人がこの確率でランダムに乗る電車を決めたとすると、 この同じのぞみ号に乗る確率はこの2つのパーセンテージの積になるから 0.00002パーセント、つまり大体一千万回に2回ほどの割合であった.(註1)

これがどのくらいすごい数字かというと、人生80年として、 生存する日数はおよそ3万日、70万時間、4千万分くらいである。 ということは、毎分一回の割合で挑戦し続けても一生のうちに8回しか成功しないような、 難易度の高い事件を、私たちは引き起こしてしまったのだ。

さらに付け加えれば、超多忙かつ超有名人である彼は、当然のようにグリーン車に乗車したわけだが、何を隠そう その日は私も生まれて初めてのぞみ号のグリーン車に乗車したという記念すべき日だったのである。 われわれは同じ電車のしかも同じグリーン車両に同乗したのだ。この効果も勘案すれば、 乗り合わせる確率は微小と呼ぶにふさわしい数値だったのである。

余談だが、特定の人と特定の電車に乗り合わせる確率は小さいが、 知り合いと同じ電車に乗り合わせる確率となるとぐんと確率は上昇する。 仮に私と同じくらいの頻度で新幹線に乗る同僚が100名いたとして、誰かと 同じ電車に乗る確率は1.3パーセントほどになる(註2、3、4)。 小さい値だが、この程度だと奇跡的というにはふさわしくない。

ある大きなグループに属する誰かにあう確率は存外大きいものだ。 実際、筑波にいたころは 狭い場所ということもあり、つくばセンターで買い物をしているところを 結構頻繁に学生に目撃されていたようだし、 東京駅からの高速バスでも見覚えのある学生と乗り合わせたことは何度もある。 所長と乗り合わせる確率は小さいが、京都大学の誰かとどこかで乗り合わせる確率は結構大きい。 3月にパリに行ったとき、私の席の前に座っていた人は京都大学の先生であった。 面識のない人だったのだが、京大のロゴの入ったバックを持っていらしたのと、 学者独特の奇妙な行動パターンを示していた点から判断し、 京大の先生に違いないと断定したものである。

さて、所長とのぞみで出くわした後の、私の行き先は水戸であった. ちょっとした用事で行ったのだが、ホテルのある出口を探していたら、 筑波大学時代の学生が改札から出てきて、実に仰天した。この人は 現在大学の先生であるから、学会で出会っても何も驚くに値しないが、 何の脈絡もなく、しかも水戸駅の改札口で出会う可能性など、 偶然という言葉では表現が弱すぎる。 とっさに上のような確率計算を考えた私だったが、 すぐさま出てきた彼女の表現が実に的を射ていた。

「ロンドンの鉄道の駅で出会っても、こんなに驚きませんねぇ」

註1:私がのぞみ号に乗ったという条件の下で、そこに所長がとことことやってくる確率は0.14パーセントである。

註2: 気になる読者のために計算式を示しておくと:ある同僚が自分の乗るのぞみ号に乗らない確率は 100-0.014=99.98パーセント強である。しかしながら、100人すべてが乗らないとなると、 これを100回かけ合わせた、98.6パーセントほどになる。100パーセントからこの数値を引いたものが、 100人すべてが乗らないわけではない、すなわち100人のうちの誰かが乗り合わせるという確率になる。

註3:ちなみに、偶然を強調するために一千万回に2回という数字を出したが、 ここでは「特定の電車」というのが味噌である。 所長と私が「どの電車」でもよいから同じのぞみ号に乗り合わせる確率ははるかに大きい。 上の方法で計算すると0.7パーセントである。所長の目は結構光っているものだ。

註4:後学のために、同じ計算を同僚1000人として計算すると、13パーセントほどになる. 1000人も知り合いがいると、結構誰かにあうものだ。

追記:几帳面な読者はいるもので、初めにこの部分を書いたときにした計算の論理が正しくないと指摘されたので 文章をずいぶん修正した。確率計算は本当に難しい。ところで、 この几帳面な読者は高校の同級生である。私の計算のずぼらさは今に始まったことではなく、 この人には高校時代にも何度も間違いを指摘された。私にもう少し計算能力があったら、 世の中は変わっていたことであろう。

さらに追記:のぞみのグリーン車に乗る機会はその後しばらくなく、 2007年1月某日についに第2回目の乗車を果たした。インターネット予約のポイントがたまっていて、 翌日の朝一番で仕事があったので、東京からの最終のぞみ号グリーン車に思い切って乗ったのである。 乗ってしばらくすると、なにやら視線を感じた。見あげると所長であった。正確には、元所長である。 彼は定年で強制退職になってからも多忙な毎日を送っているのである。さて、たまたま2回乗った のぞみ号グリーン車で、いづれも(元)所長に出会う確率は…面倒なのでもう計算しない。


2004年4月某日

生きた英語を書くのは難しい。文法的には ほぼ正しいと思われるものの、何を言っているのかわからないという 奇妙な英文は確実に存在する。 先日も、某学生の書いた文章を見たが、まさにその一例であった。 これでは困ると嘆息し、「これではまだまだだめだ」と苦言も呈したものである。

しかし、そのうちに自分の記憶もよみがえってきた。留学前の話である。 その後一時期同僚にもなったS先生に、自分の書いた英文の論文を見ていただく機会があった。 S先生は、初めの2ページほどをぱらぱらとご覧になり、すぐさま、 これじゃ何をいっているか、ぜーんぜんわからないよ、とおっしゃった。 受検科目で英語がもっとも得意科目であった私は、少なからず 衝撃を受け、同時にS先生の英語力をうたがうという不埒な 心をもったことをここに告白せねばならぬ。

しかし、正しかったのはS先生のほうだった。 今でも忘れぬが、マクロ経済学の第一回目の授業、 向学心の塊であった私は最前列に座り、 かの有名なBarro先生の言葉を一言たりとも 聞き逃すまいといきまいていた。 そのうち教室中の視線が私に集中した。 これは前に乗り出すようにして聞いていた 私を怪訝におもった先生が私に何か尋ねたらしい のだが、私には尋ねられた内容はおろか、 尋ねられたということもわからなかったのである。

マクロの成績はCであった。よほど日本に帰ろうかと思った。

外国語に関する失敗談は数限りなく、読者にも一つや二つはあるものと信じるが、 最近聞いた同僚からの話はあまりに秀逸であったので、ここに無断で紹介する。

彼によると、飛行機に乗ったとき、フライトアテンダントにたのめば その航空会社のロゴ入りの封筒と便箋をもらえるそうだ。それが欲しかった 彼は、「封筒と便箋をください」と 自信たっぷりに英語で言ったところ、 合点したフライトアテンダントは カップに「ジン・アンド・トニック」を入れて持ってきたそうだ。 誤解ではあるが、せっかく持ってきてくれたものを 飲まないのも悪いと思い、彼は 「ジン・アンド・トニック」を飲み干した。日本男子の心意気というものだ。 そして もう一度、今度はゆっくりと、「封筒と便箋をください」と 頼んだらしいが、 結局2杯目の「ジン・アンド・トニック」を飲んだとのことである。

追記: ある読者からの質問「いったい「封筒と便箋」というのをどのような単語をつかって表現すると 「ジン・アンド・トニック」のように聞こえるのですか。」これは、本人に発音させてみるしかないですね。


2004年4月某日

台湾に行ったのは初めてだ。滞在先は中央研究院(Academia Sinica)、台北市の郊外にある。 最寄に駅はないが、地下鉄の終点からタクシーで10分弱で付く。台湾はタクシーがめっぽう安く、おそらくは3,4キロメートルはあろうかという距離だが、料金は400円程度である。

中央研究院は経済学だけではなく、自然科学や社会科学、人文科学のさまざまな分野の研究所がそろう、 台湾の学術研究の拠点である。話に聞くと、経済学で言えば台湾全体で書かれている論文の半分以上、 分野によっては8割が、この研究所の所員によって書かれているというから、まさに拠点と呼ぶにふさわしい。 研究者には授業担当はなく、ひたすら研究業績を上げることが求められている。 それはそれでシビアな世界ではあるのだが、その引き換えに研究費や施設には非常に恵まれていて、 給与も他大学より若干高いそうだ。

私が泊まったのはキャンパスの寮だが、寮というよりはホテルといったほうが正確である。 古くはあるが、きれいにメンテナンスが行き届いている。部屋にはLANだけではなく無線LANの接続も用意されている。 設備が古くなっても古いままでほうっておくのがわが国の国立大学の施設での慣行であったわけだが、独法化をへて解消されるのであろうか。

それほどの研究拠点でありながら、 私は恥ずかしながら今回訪ねるまでその存在を知らなかった。 もちろん、中央研究院の研究者は何人か論文を読んで知っていたのだが、 中央研究院というところがそのようなところだとは知らなかった。

さて、台北は思ったよりはるかにきれいで整備されていたので驚いてしまった。 台湾の人には失礼な言い方であるが、もう少し汚い物をイメージしていたのである。 確かに整備の行き届かない、うらぶれた横丁は多く残っている。 しかし、シンガポールほどまでは行かないが、町におちているごみの量は少ないし、 タクシーの運転手のマナーもよい。一番私が気に入ったのは、レストランが原則禁煙だということだ。 喫煙セクションがあるところもあるが、その場合でも分煙がかなり効いていて、 空気にタバコのにおいが少ない。禁煙レストランを見つけるのが、 針の穴に糸を通す以上に難しい日本とは大違いである。 短期間の滞在でサンプル数が少ないが、地下鉄でタバコを吸っている人は一人も見かけなかった。正確には2人見たのだが、それは日本人の二人組みであった。わが国の恥である。タバコに対する態度がその国の文化のレベルをあらわすというのが私の持論であるが、アジアでは台湾とシンガポールが最高峰ということになろう。

快適な台北訪問であったが、あえて問題を挙げれば、 ホテルの風呂がバリアフリー型でなかったことだ。浴槽とトイレが一緒の欧米型だったのだが、 浴槽の縁の高さが少し高い。 私は体が大きいのでこんなことには普段は気づかないのだが、 今回はちょっと事件があってバリアフリーの大切さを痛感してしまった。 というのも、浴槽につかってからヘリをまたいだときに、足がすべって転倒して浴槽外に転落し、 臀部をしこたまうってしまったのである。 今も赤くはれ上がっている。とっさに受身を取ったおかげで臀部ですんだが、 もう少しで便器のヘリに頭をぶつけるところだった。 あの時、頭でも打って失神し、全裸の状態で誰かに発見されていたならば少々の恥ずかしさでは すまなかったに違いない。 下手をすれば今頃は「京大教授台北でなぞの死」などというつり広告がそこらにあふれていたかと思うとぞっとするのである。 一命をとりとめ、こうしてこのような駄文を書けるだけでも神に感謝せねばならない。


2004年3月某日

3月にヨーロッパにいたのは、1993年から94年にベルギーに住んでいたころ以来になる。 ベルギーはもともと雨の多いところであるが、その年は特に多かった。降り続く雨に辟易として、 暖かさと太陽を求めてベニスまでやってきた記憶がある。ベニスも決して 光と暖かさに満ちた場所ではないが、そのときは確かもう少し暖かかったと思う。しかし、 今年のベニスはとても寒かった。

ベニスの名物、ゴンドラだが、この寒さの中でももちろん営業している。 もっとも見かけたのは日本人観光ツアー客と思しき一行ばかりで、 傘をさし凍えんばかりに縮こまってゴンドラに収まっている。 そこまでして乗らなくてもと思うのだが、日本からわざわざやってきて ツアーの予定に入っていると意地でも乗りたくなるのであろう。 せっかくきたのだから、やはり形にこだわりたい。ゴンドラに乗らないベニスなんて、というその気分はわからなくもない。

ベニスの飛行場では、改築されて数年前に比べてずいぶん立派になった。 2階フロアーには立派なカフェがある。セルフサービスでお手軽なカフェだが、 ちゃんとオーブンがあって、ピザやパンをその場で焼いている。 イタリアのこだわりだろうか。

ふと見ると、カフェのカウンターで コーヒーを飲んでいる男の人がいる。飛行士らしい制服を着ていてりりしい。 ところが、カフェにはたくさんテーブルがあり、私がそれを見たのは午前9時ころで、 比較的すいている時間帯だろうか、テーブルはかなりあいていた。

イタリアのバーでは、たって飲むのと座って飲むのでは料金が違う場所が多いが、 ここでは同じである。だから、彼がたったまま飲んでいるのは、やはりエスプレッソなど 朝のスピードへのイタリア人のこだわりを見せているとしか思えない。立ったままでさっさと飲むのが 粋というわけだろう。

飲み終わるとこの男はテーブル席の方に向かった。そして、私の隣のテーブルの脇のいすにおいてあった かばんと帽子を取ると、颯爽と立ち去っていった。 ご丁寧にこの男は、自分のかばんと帽子をテーブルのところに置いてテーブルをひとつ 占有したあとで、こだわりを見せてカウンターで立ってコーヒーを飲み、飲み終わってから戻ってきたのだ。 それならば、カウンターに荷物を持ったまま行って飲むか、あるいはカウンターからコーヒーを荷物のところまで もってきて飲めばよいのにというのは、イタリア人のこだわりを理解せぬ 無粋な考えといえるだろうか。

さて、ボローニヤはベニスから電車で2時間ほどの距離である古い都市だ。 ボローニヤ大学は、ヨーロッパ最古の大学であるらしいから、 大学人にとっての聖地のようなものであるといっては大げさすぎるであろうか。 ところが、イタリアには何度もきたのであるが、私はボローニヤには行ったことがない。

そこで滞在中のとある日曜日、ボローニャまで出かけ、 ついでにサッカーでも見てこようと思いたった。 駅まで行くとその日は鉄道ストのため、あまり電車は走っていないとのこと。 もっとも、大都市間を結ぶ特急は通常通り運行しているとのことであった。 中田選手もいつまでプレーしていてくれるかわからないし、この機会を逃したら という考えが頭をよぎる。 どうしようかと迷ったが、外はみぞれ混じりの冷たい雨。 翌日には大学での研究発表を控えていた。 この中でサッカー観戦などしたら風邪を引き翌日に支障が出かねぬ と自重することにした。

雨と寒さの中、ベニスの町をぶらつく気にもなれず、リアルト橋近くのアパートに帰宅。 疲れがたまる時期であったのか、ベッドに横になったら寝てしまった。

イタリアのプロサッカーのリーグ戦は日曜日に行われるが、試合のほうは有料の ケーブルテレビで放映されているとのことで、一般の地上波では放送されていない。 しかしながら、試合中に「生放送」のサッカー番組はきちんとあるのだ。 試合の中継ができないのに生放送でどのような番組をするかというと、 スタジオに司会と4名ほどの解説者がそろって、なにやら議論を戦わせるのが主眼らしい。 試合のある現地にはアナウンサーがいっていて、試合の実況中継をするのだが、 スタジオでは適宜音声のみを流すという趣向。 点が入ると、アナウンサーは絶叫し、 画面ではご丁寧にプレステのサッカーゲームのようなアニメーションで、 どのような形で点が入ったのかを説明してくれる。

ヨーロッパの国には大体次の言葉のような格言があるらしい。 「サッカーは、所詮スポーツである。 だから、サッカーを語ることは、人の生活を左右するようなレベルの問題ではない。 それよりもはるかに重要なのだ。」

こんな番組を見ていてイタリア人は満足しているのだろうか。

ボローニャはその日ラッツイオと対戦のはずだったが、 この番組では音声の実況さえ混じらない。どうも妙だと思っていたら 6時半のニュースでは雪に覆われたボローニャのサッカー場が 映されていた。雪のため中止になったとのこと。


2004年2月某日

某政治家の学歴詐称疑惑はどのように決着するのだろうか。

私はこの事件を並々ならぬ関心を持ってみていた。 というのも、実は、自分の博士号の証書が 行方不明だったからである。

筑波に就職したときに、その種のことはすべてチェックされたはずであるから、 学位記の記録がどこかに残っていることは確実である。実際、阪大、京大と動きまわっても、 だれも証書を見せろとは言わなかった。 私も楽観していて、 証書の紛失を冗談交じりで話したこともあった。

そうこうしているうちに、くだんの詐称疑惑がおこったのである。 ニュースを聞いたときにはまったくのひとごとであったのだが、 所属政党では、学歴を確認するために、候補者に学位証書を提出させると決めたとの 報道があったあたりから、 私も安閑としていられなくなった。なぜなら、 4月からの独法化で、われわれの雇用も原則リセットということであれば、 再び学位を見せろということは、当然ありうることだからである。

いったい、そのような大切なものをどこにやったのだろうと考えているうちに、 Harvardで過ごした日々が夢のように感じられてきた。 思い出そうとすればするほど、あれは果たして現実だったのだろうかなどと思えてくるから不思議なものである。

証書紛失事件をうっかり話してしまった某氏には、後日念のため口止めをしておいた。 ところが、この人からは、紛失事件を蒸し返す冗談メールがきて、 この分だとここから情報がするするリークしてゆく日も遠くないと 恐怖感を覚えた私は、 まずは証書再発行の手続きをどうしたらよいのか調べることにした。

すると、私はHarvard卒業生のメーリングリストに 登録されていて、HarvardのHPへのログインもできるから、おそらく 私がHarvardにいたことは確かであろうことはわかった。 それにしても、某政治家も当該大学に所属していたことは確からしいから、 それだけでは心もとない。 あまりない要求なのであろう、再発行の手続きはネット上ではできないらしい。

そこにいたって、実家のほうを調べていなかったことに気づいた。 早速メールを入れると、先年改築したときに、箱に詰まった 余計な紙はみな捨てたから、 卒業証書は残っていないという信じられない電話が父からかかってきた。

その瞬間、某政治家の気持ちが私には本当によくわかった。

さて、この話には当然落ちがある。 卒業証書は残っていないが、ラテン語らしきもので記述された なにやらわからぬ証書類は残っているとのことで、それを聴いた瞬間の私は 胴体着陸1分前に車輪がめでたく外に出た飛行機の乗客なみに安堵感に浸ったものだ。

大学には卒業証書はなく、 学位記をもらうだけだと私が主張すると父は解せない様子。 また、私の一橋の学位記と父の学位記はしばらく見つからなかったが、 これは電話で会話をしているうちに、母がどこやらから 掘り出してきてめでたく発見された。ご自身の学位記の どこにも「卒業」の文字がないことから、父も納得した様子だった。

さてと、皆さんは自分の学位証書がどこにあるかご存知ですか(^^♪


2004年1月某日

こんな夢を見た。

石薬師御門を抜けて梶井町にさしかかるあたりに、黒塀に囲まれた路地があった。 いつも通る場所なのに、それまで気づかなかった路地だったので、 興味を引かれて曲がって入ってみる。 すると、奥のほうにぼんやりと肌色に鈍く光る灯篭があって、 それが手招きをしているように見える。 どうやら古屋を改造して新しく開いた店のようだ。

玄関前にいた着物姿の娘に導かれて中に入ると 古びた家の構えからは想像できないような、広いカウンターがあって、 そのカウンター越しに、窓の外にひろがる鴨川を見ることができる。 川の向こう岸には金閣がみえて、その横手でおこっている 焚き火に人だかりができていてる. はて,この位置から金閣が見えるのは妙だと思い,目を凝らしてみると, 窓からの景色だと思ったうちの半分は、壁に張ってある 紙のように薄いディスプレイに映っているのだった。 有機ELも珍しくはなくなったな、と思った。

カウンターには娘がもう一人いて、グラスを洗っている。 注文をとりにきた娘をみて、気づいた。

「みんな、姉妹なの?」

「4人姉妹なんですが、一人は東京にいるんです」

東京にいるというその一人は、 姉妹でこの店をすることには協力的ではないそうだ。 姉妹で一番高学歴らしいが、そのくせこの店の儲けから仕送りをうけ続けているのは 変でしょうと同意を求める娘に、そんなものかなと思う。

ふと外を見ると、大きな桜の木を、和服姿の男がよじ登っている。 いくら大きな木でも、あんな登り方をしたのでは、枝が折れるのではないかと いうこちらの心配をよそに、男はするすると木を登って、さらには屋根に上って腰をかけ、 東山のほうを眺めて茶を飲んでいる。きっとぼんやりとした不安を抱えているのだろう、と合点していたら、 注文をとりにきた娘がこんどは請求書をもってきた。いつの間に飲み食いしたのか わからない。財布を取り出し支払いをしようとすると、娘は珍しいものでも見たかという顔つきをして、 うちは現金はあつかっていないですよ、という。

そうか、新しい店だと現金はダメになったんだなと思い出し、 携帯電話を取り出して支払いをしようとしたら、携帯電話を持っていない。 自分は携帯をつかわないのだと言おうとしたら、 いつの間にか耳に大きなイヤリングをつけた 強面の屈強そうな男が目の前にいて、 最近その手で食い逃げしようとするやからがいるらしいけど、 あなたは違いますよねと、妙にニヤニヤしながら言う。

これは困ったことになった、クレジットカードは 今も使えたのだったかと必死に思い出そうとしたら目が覚めた。