2002年の独り言

by 梶井厚志



2002年11月某日

本を出してから、新聞雑誌のインタビューを受ける機会が数回あった。いずれも、インタビュアーの質問に対して1時間くらいいろいろと答えたものが、著者・書籍の紹介として記事になるという仕組みだった。

朝日新聞の文芸欄(関西版)の場合、出来上がった記事は「恋愛を戦略的思考で考えると」といった趣旨のまとめ方がされていたので、それをたまたま目にした人は、私が1時間に渡って独自の恋愛論をぶったかと思われるかもしれない。ところがさにあらず、実際にインタビュアーに仕向けられてその種のことを語ったのは10分にも満たなかったはずである。第一、恋愛論など私のもっとも苦手とするところで、そんなに話すことなどありはしないのだ。

では記事のできはよくないかというと、これがまたさにあらず、一読してすっかり気に入ってしまった。なるほどこのように書けるものなのかと感服したものである。それで、思い当たった。

インタビュー記事とは、話し手が言ったことをそのまま書いていてはだめなのである。そもそもインタビューのされる側は、質問に対する答えを、すぐにいろいろと頭の中で整理して話すことができるわけではない。特に私のような話し手は、水を向けられるとどうでもよいことを長々と話してしまう。それを「そのまま」記事にしても取り留めのない小学生の作文のように面白くないものができてしまうだけだ。インタビュー記事は、話し手が実際に話したことをそのまま書くのではなく、話し手の話を論理的に整理してやるという作業が必要なのだ。

さかのぼって、そもそも、話を聞いてからインタビュー記事を書くというのではいけない。記事を書く場合には、すでに記事の構想が頭にあり、インタビューではその構想に当てはまる発言を選ぶのが定石である。もう少し正確に言えば、自分の構想にあうような発言をインタビューのなかで引き出してゆく、というのがインタビュー記事の重要なテクニックのようだ。


2002年11月某日

「戦略的思考の技術」は第5刷ができることになりました。

「ミク戦」がでたときは,書店でどう扱われるかはあまり気にならなりませんでした。そもそもこれは教科書だから,主たる読者層は学生なので,一般書店でどのように置かれるかはあまり売上げには影響しないと考えていたからです。ところが,今回の本はもっと一般向けの本なので事情が違います。発売前は不安でいっぱい,新学期になればそこそこ大学需要があるから,出版社に迷惑をかけることは無かろうとは思ってはいましたが,ふたをあけて見ると予想外の好調な売れ行きとなりました。そうなってみると欲が出て,この際どこまで売れるか,売れるだけとことん売ってほしいと思うようになりました。少しでも宣伝になるよう,通勤中に阪急千里線の電車で読むのはお約束です。最近ではほかの本を読むときでも「戦略的思考の技術」のカバーをつけて読もうか、学生にカバーの図柄を刷り込んだTシャツを着せて道頓堀を歩かせようかなどと考えるほどの入れ込みようなのです。(注1)

ところが,大阪の私の通勤経路付近に点在する書店からは, 「戦略的思考の技術」が消滅してしまいました。まさに消滅で,とにかく一冊も見当たらない。梅田の紀伊国屋にはさすがにたくさん置いてありましたが,意外に置いてあったというのは阪急梅田駅改札そばのブックファーストくらいで,梅田のジュンク堂にも数冊(しかも,なぜかあの人気のオビがとりはずされているというとんでもない仕打ち)だけ,旭屋書店梅田店には店内に1冊だけ,(しかも日経新聞の書評のコピーが書棚に貼ってありながら,そこにはおそらく前は本がおいてあったと思われる空間があるだけで,実物は1冊もなし),難波店からは消滅,ブックファーストも大阪駅前店には一冊もなし,天神橋筋にある小さな書店3軒には皆無でした.中工に在庫が無いわけではないので,書店の果たす市場機能が停止していると考えざるをえない。アマゾンも在庫切れ,書評を見てくれたらしい読者からも品切れ問い合わせのメールをもらうに至り,思わず編集のSさんに食ってかかった私は欲に駆られすぎでしょうか。

さて,そのSさんからの丁寧な返事の要点は:


とのことでした。直接私の手におえる問題ではなさそうです。また,販売を担当しない編集の人に食ってかかる私もどうかしてました。ごめんなさい。

というわけで,身近な書店で「戦略的思考の技術」を見かけなかった皆さん。他で探そうなどと思わず,どんどん書店に注文してください。(注2)

注1: 私の父は自分で8冊買って配り宣伝したそうです。

注2: しかし,このコーナーの熱心な読者は,もうすでに一冊持ってるよね。保存用にもう一冊いかが?

追記: その後梅田のジュンク堂ではふたたび本にオビがついていました。




2002年10月某日

WHOの調べによると、男性の喫煙率は52.8パーセントでG7の中でトップだそうだ.参考まで.



2002年10月某日

Amazon.co.jp に寄せられた私の本への書評より抜粋:

「著者はセンセイなどという文字通り散文的でイヤラシイ職業よりも,大衆作家を目指すべきであった.全く,人生とは上手く行かないものである.」

そうかい?

書評自体は身に余るほど好意的です。元気が出ました。

自分で書いたんじゃないのぉ,と思った君.放課後に職員室まで来なさい.



2002年10月某日

松井さんありがとう。教科書・参考書としてのご採用を期待しております。



2002年10月某日: 

八重洲ブックセンターでは週間ベストセラーのランキング入り をしました.「読書力」の上にいるのは悪くない気分.しかし幸福の科学は強いな.



2002年9月某日: 

中公新書の見本版が送られてきた。手にとると,新たな感慨。書店には早いところだと24日に並ぶとのことです。われこそは第1購買者という方はご一報を。各地書店で売られている様子に関する情報をお寄せください。

追記1: 実際に店頭に並び始めたのは,早いところだと21日の土曜日からだったようです.私がはじめてみたのは24日、 八重洲ブックセンター にて。筑波に出張で行く途中に編集の人といっしょに寄りました.そのあと、国立の東西書店、一橋大学生協、天六の本屋さん、などなど。宣伝用のパネルも作ってもらえました.私はまだ実物を見ていませんが, こんなふうに なっているようです.

追記2: 書店での販売状況をレポートするメールを多数いただきました.ありがとうございました.こんなことで一喜一憂するのも大人気ないのですが,やはり自分の本が読まれるのはうれしいし,それが売れるのはもっとうれしいのです。少々付き合ってください。以下,いただいたメールからかいつまんで:

9月21日に東京駅の大盛堂

八重洲ブックセンター: 新書のコーナー,一階のレジの前,数学のORとかゲーム理論のコーナー,ビジネスの思考の仕方みたいな特集のコーナーにありました.意外にも哲学のコーナーにもあったのですが,経済学のコーナーにはなかったです.

東京都東久留米市にあるイトーヨーカドー: 平積み

つくば市: (9月27日ころ)

ブックバーン 残念ながらありませんでした。中公新書自体ちょこっとしかなかったです。「筑波大の先生が書いた本なんですが、入らないのですかー?」とプッシュしておいたのでこれから入るでしょう

西武の5F本屋さん 見たところ3冊残ってました。棚の状況から推測して数冊出た後でしょうか。

吾妻のゆうほう堂 10冊ありました。他の新刊も10冊ずつありましたので補充されたのでしょうか。(梶井注: 売れてないのかも)

大学会館書籍部 割引価格になるので自分でも1冊買おうと思ったら売り切れでした。平積みには他の新刊しかなく、店員さんに聞いたところすべて売れてしまったそうです。(梶井注: 地元ではやはり強いね

浜松町のdanという比較的大きな書店、入ってすぐ脇の目立つところ、壁面に沢山並べてありました

北海道: JR琴似駅前の文教堂で1冊買いました。残りあと1冊。たぶん私の前に誰かが1冊買ったんでしょう。

追記3: 重版が決まりました.




2002年9月某日: この数字: 1200円

答え: 教授になって増えた月額報酬(税込み) - こんなもんなの? 

(追記)A野さんからの指摘:手元にあるAmerican Economic Review, 2002, May, p.527に、アメリカのPhDコースの教官の給与(academic year 10か月分)が出ております。年収で

assistant professor $ 66,091
associate professor $ 76,844
professor $ 106,965

追記2: 昨日「大学研究科科目担当」の辞令をもらいました.8パーセント給料が上がるそうです。筑波のときも大学院担当をしていたから、昇任していくら給料が上がったかというと8パーセントというのが正解のようで,さすがに1200円ではないようです.よかったよかった.



2002年9月某日: 

中公新書の第三校読破.書店に並ぶのももうじきです.オビには「あなたの毎日に“戦略”をプラスする」とあり,なかなか気に入っています.もっともこれは筑波大のTくんの案で,著者および編集者案は書店に評判が悪くボツでした.

出版社からの校閲原稿を見てつくづく感じたのが,漢字を使うかひらがなを使うかについて,ルールが統一するのは難しいということです。 たとえば,ある場合は「感じる」と漢字を使っていて,またあるときは「かんじる」とひらがなで表記をしている。これは私のずぼらさにもよるものですが,もう一つの原因は,原稿は2台のコンピュータをつかって書かれ, しかも1ページから最後のページへ向かって連続して書かれたのではなく,気が付いたことをどんどん書き足して書かれたということです。なぜこれが原因かというと,文章を入力して変換をするとき,学習機能によって次回からは前回と同じ表記方法が第一候補として出てくる可能性が高い. したがって,いったん「感じる」ようになれば,その後もずっと「感じ」続ける可能性が強いので,漢字とひらがなの選択の統一を取るのは難しくないはず. ところが,この学習過程が2台のコンピュータで同期されているわけではないから,片方は「感じる」のにもう一方では「かんじる」のが第一候補になりつづけることもある.それで,どちらのコンピュータで書いたかにより,漢字かひらがなかの差が出てしまう。

もっとも,そもそも私が普段から意識して自分の使うコンピュータを同じように教育しておけばこの問題は生じないわけですから, やはり自分の文章力と注意力不足の問題ですね.


2002年8月某日:

阪大病院の最上階にはレストランがある.質の割には安いランチ,そしてあたりを一望する眺めがすばらしい.

病院のレストランだから禁煙かと言うとさにあらず,店内ではかなりタバコの匂いがする.それもそのはずで,あたりを見ると入院患者用の服を着た人が,体を震わせてタバコを吸っていたりする.しかも,こういう人に胸のあたりに大きな手術痕があったりもする.あまり美しい眺めではない.

我が家の近く,JR天満駅のすぐ前に,完全禁煙の立ち飲み居酒屋がある. 表に「禁煙」と明記してあり,もとより店内でタバコを吸う人は誰もいない.タバコの匂いのない,店内の爽快さは言葉では表せない.居酒屋でも,このような香りになりえるものなだと感心してしまう. 夕方になると,この店の一面5,6メートルあるコの字型の大きなカウンターには人が鈴なりになる.禁煙居酒屋ファンは少なくない.このような店を応援するべく,私はこの店の前を通ったら昼夜を問わずはいることにしている.

(追記) さらに天六付近に禁煙喫茶店も発見。もっとも,パン・ケーキを売る店の一部なので、そうなっているのかもしれない。理由はともかく快適。



2002年8月某日:

大阪にやってきた.引越には気力も体力も必要である.数えてみると,アメリカに留学に旅立ったときから数えて,引越は8回目だ.

アメリカに向けて旅立ったときは,荷物はスーツケースが一つと手提げバッグが一つだけで,その他は別便で本を10冊ほど送っただけだった.しかも,手提げの中には使い古したラジカセが入っていたのだから,われながら昔は身軽だったものだ.

アメリカにわたったのは,8月の中旬だったが,初めに予定していた場所にいづらくなったため,寮に入居可能になる数日前にボストンに到着するよう予定変更をした.宿を確保すべく,当時の経済学研究科の秘書Kathyに電話したら,ちょうど同級生の日本人がすでにボストン入りしているので,連絡をとりなさいとのこと。それで連絡をとり,その後ずうずうしく押しかけ,しかもいきなり一週間近く居候させてもらった.この同級生は,現在一橋大学のW氏.

留学一年目はつき500ドルの奨学金をもらい,そこから寮費の200ドル(食費別)を支払って生活していた.到底そのような貧乏生活は今の私にはできない.図書館で1週間遅れの朝日新聞を読むときによく顔を合わせた数学専攻のT先生は,500ドルで生きてゆけるなんて,それは奇跡だと感動してくれた.この方は感動のあまり,帰国の際に机やソファーなどをただ同然で譲ってくれた.そのときにもらったルノアールの絵の額入りプリントは,今も私の研究室に置いてある.急に物持ちになった私は,それ以後トラックなしでは引越できなくなった.



2002年7月某日:

日経新聞に書いたシグナルの話は,中公新書に書いている原稿の一部を手直したものです.読者からいくつかメールをいただきまして,元気付けられました.その中でも,良かったのは:

M井さんからのメールその1: 

カミサンとその同僚に、カジイさんの記事のほうがわかりやすかったと言われ、悔し泣きしています。ただそれだけ

M井さんからのメールその2:

Iさんより: M井さんのやさしい経済学,評判がいいですよ.前回の梶井さんのシグナリングの話もとても評判が良かったです.

よかった、よかった、と思ったら「評判」の前の副詞に注意。ぼくのには「とても」がついてない。くそっ!(^^;

しかし,こんなことで喜んでいるようでは,私も相当重症.



2002年7月某日

最近いろいろな締め切りに追われる日々が続いている.とはいえ,私のは多寡が知れているのだとは思うのだが,なにせこれだけいろいろなことが重なるのは生まれて初めてと言っては大げさか.ストレス解消のため,引越しに備えたオフィスの掃除.いらないものをどんどん捨てるのは気持ちが良い.



2002年6月某日

日本経済新聞「やさしい経済学」の原稿を仕上げた.今度は「戦略的シグナル」で6回連載.日経新聞の前の「コミットメント」のときと同じようなカルいタッチで書いてみた.その後にM井さんの連載が続くらしい.

日本経済新聞はこの4月から文字が大きくなった.大きくなって見やすくなったはずなのだが,前の文字のサイズでも私は問題なかったので,それほど気にもしていなかった.ところが,今度の連載では意外なところで文字数の制限がきつくなっていて,それで初めて大文字化の影響を体感した.まず,見出しが7文字に制限されていること.今回の場合,「戦略」と「シグナル」ははずせないキーワードなのですでに6文字.すると使えるタイトルの可能性は数通りしかない.次に,8月から大阪大学に移ることもいれようとすると,これも本文にはみ出すのでたぶんだめとのことであった.




2002年6月某日

筑波にいるのもあと一か月ほどのはずだが,大阪で住む場所は未だ決まらず.

中公新書の原稿はかなり書けた.が,ここ数日は不調ですすまず.




2002年6月某日

月刊カートンボックス というダンボール業界の業界紙の原稿を引き受けた.調べてみると,結構面白い業界で,教科書の話しのネタになりそうな事例が多い.




2002年5月某日

筑波での講義は,大学院が一コマと学類の実習の授業だけ.実習は4.5時間が3日間で今日が一日目.久しぶりに大声を出したのでつかれた.



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2002年4月某日

1.事件の発端: 筑波大学のゲストハウスには電話がない.2000年1月,G氏の来日の際,あまりに不便なので,Tukaのプリペイド式携帯電話を購入.以降,遠距離に出張するときに使用するもののカード購入は年2−3回程度.

2.事件の発生: 2002年3月出張先の大阪で,残高がなくなってきたので,カードを購入することにした.コンビニで「ツーカーのカードが欲しい」と言ってカードを購入.結局残高がなくなる事はなく,カードは未使用のまま筑波に帰る.


3.事件の内容: 2002年4月,東京で待ち合わせのため新しいカードを登録しようと,大阪で購入せしカードの番号の登録を試みるが成功せず.サービスセンターに問い合わせる.その結果,購入したカードは「ぷりけー」カードで,私の所持する「ぷりてぃ」用携帯には登録できないとのこと.紛らわしい名前なので,買ったときには気づかずなかった.店員からの説明はなかった.あったとしても,紛らわしい名前なので理解できたかどうかは疑問

4. ツーカー関西のオペレータ(女): だいたい似たような名前の会社で,初めの二文字まで同じ製品を出しているのは,そもそも消費者保護法に反するはずと食い下がるが,カードのやり取りは販売店と客(=私)の間の問題であり,ツーカ関西には一切責任はないと主張.追い討ちをかけるように,カードの裏にごく小さな文字で書いてあるようにツーカー関西では返金には一切応じられないとオペレータ.だいたい,カードを買ったコンビニはどこにあったか覚えていないし,第一それは大阪にあって問い合わせるわけにもいかないとひたすら食い下がると,「何をお望みでしょうか.」(重要な注:実際にオペレータが使った表現) ツーカー関西では対応していませんので,ぷりてぃーを発行しているツーカーに問い合わせて見たらどうでしょうとのこと.そのような間違えが起こらないように,解説書に注意が書いてありますよと,読まなかった客に責任があるとにおわすではないか.確かに,解説書などまじめに読んだ事もないので返答にこまるが,ぷりてぃーのWebページをみてみると,プリティーとプリケ-に互換性がない事はおろか「プリケー」という単語さえ入っていない.それならば,ツーカー関西はしっかり対応しているのかとプリケ-のWebページをみると,ぷりてぃーカードの存在をにおわす記述さえ見当たらない.

5. 結論: 誤って買ってしまったツーカのプリケ-カードを誰か買ってください.


追記(2002年5月某日)

あまりに悔しかったので,ツーカーセルラー東京のホームページにあったメールアドレスに,上の主旨(ただし5を除く)を送って見たら,丁寧な返事が2通がきました.話を要約すると,私の意見が取り入れられ(以下2通目のメールからの抜粋)

カードのご案内をしているカタログやホームページにプリペイドカードは「共通でない」と言うこと、止むを得ず購入する必要が発生した場合はコンビニ「ローソン」のマルチメディア端末“ロッピー”で買える と言うこと、を掲載するように社内を調整しているところであります. (このロッピーも東京と関西は違うという事を明確にする必要があろうかと存じます.) うまくいけば7月号のカタログに反映が出来るかと存じます.

とのこと.しかも,私の持っているプリケ−はツーカーセルラー東京がぷりてぃーカードと交換してくれるそうです.

# しかし,これまで私以外にはこの間違いをした人はいないのだろうか?その点はわからずじまい.

追記(2002年5月某日)

カード交換完了.先方から送られていた返信用封筒に入れて送り返すだけ.送料はツーカーセルラー東京持ち.意外に迅速かつ丁寧な対応でした.結構いい会社じゃん.

追記(2003年7月某日)

私のこの事件が発端か!ツーカー各社で互換できなかったプリペイドカードに、互換性が出た模様です

2002年4月某日

日が長くなってきた.それは私の起床時間が次第に早くなってきたことでわかる.私は太陽とともに生活しているので,日が昇ると目がさめるからだ.今朝はついに5時になった.

引き受けた中公新書の原稿は主に日曜日を利用して書いていたが,遅々として進まなかった.一週間たつと前に書いた事を忘れてしまうのが痛い.授業で配ろうというインセンティブがあったのでシグナリングに関する原稿は何とか書けたのだが,それ以外は空白.3月に海外にいるときにやるかと思っていたが到底無理で一文字も書けなかった.

それで,4月にはいってから一念発起して,学校に来るまでの朝の時間を中公新書用の原稿書きに費やすことにした.家を出るのはほぼ一定の時刻なので,朝早くおきればそれだけ原稿が書けるということになる.しかし,わざわざ目覚ましをかけて早起きするのでは仕事の能率は上がらないから,自然のままに起きる.目がさめた瞬間に,書くことを思いついたりするので都合が良い.夢の中で考えているのだろうか.自分でも不思議なことである.

4月の初めには6時台だった起床時間がしだいに早くなるにつれ,初めは1,2行しか書けなかったのがだんだんリズムに乗るようになってきた.5時に起きた今朝はA4で1枚くらい書けた.日はどんどん長くなっていくから,ペースは上がってゆくのではないだろうか.これを読んでいる編集のS氏も喜んでいることであろう.しかし,もし秋分の日までに書けなかったら来年の夏まで書き終わらないであろう.




2002年4月某日

JASのバースデー割得は,国内全路線対象・1区間どこへでも、片道10,000円.利用できるのは誕生日の前後各々7日間(誕生日を含む合計15日間)とのこと.6月14日に小樽へ学会のため行く予定だが,惜しくも引っかからない.




2002年4月某日

私はWindows98ユーザー.ところがIE6.0に変えたところ,どこかに不具合が生じたらしく,以降エクスプローラが良く凍るようになった.プログラムを強制終了すると,右下のアイコンがいくつか消えるので(IMEを含む),何かの常駐プログラムの問題かもしれないが,私にはお手上げ.コンピュータ自体はフリーズすることなく,動きつづけるので,まあ良しとしなければならないのだろうとおもっていた.

ところが春になったせいであろうか,突然思い至って,コンピュータをRedhat LinuxとWin98のデュアル・ブートに改造してみた.しかし,やはりWindowsのソフトに慣れ親しんでいるため結局はWindowsで起動している.そもそも,これまで作ってきたファイルをどのように移植すればかわからないのが致命的.自分がきっちりマイクロソフトにロックインされていることを再認識する結果となった.




2002年3月某日

シンガポールより帰国.短期間の滞在ながら,シンガポールの社会経済インフラはすでに日本を追い抜いていると感じました.何もかもスムーズ.もっとも,在住するとなるとまたいろいろな問題が生じるのかもしれないが.



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2002年3月某日

ICカード発行の規制緩和決定.そもそも何でこの規制があったのだろう.




2002年3月某日

試験の採点も終わり,ほぼ春休みモードです.来週からシドニー大学とシンガポール国立大学に行ってきます.

「組織と情報の経済学」の期末試験は60人近く受けに来てびっくり.通常は30から40まで受講者が減るものだけど,今年は減りませんでした.もっとも授業に出てきていたのは30くらいか?答案の質は高め.こういった講義をする機会はしばらくないはずなので,感慨もひとしお.




2002年3月某日

大阪大学社会経済研究所 に今年の8月に転任することになりました.もっとも,転任の話自体はかなり前から進行していて,ようやく(ほぼ)正式になったという方が正しいのですが.筑波を離れたくなった理由はいろいろあるのだけど,公表しません.1学期は筑波にいて,実習を一コマと大学院のミクロ経済学を教えます.

それではなぜ大阪か.社会経済研究所のメリットはその研究環境の良さです. M井さんも2月14日に 書いているような刺激に富む場所です.ついでに昇進もするし.

デメリットは学部学生がいないため教科書や雑文のためのネタ集めが難しくなること.この大学再編改革の流れで研究所自体が近い将来消滅する可能性があること.もっとも,後者はそうなった場合に備えて自分の市場価値を高めておかねばならないということの強いインセンティブになるはずだから,むしろメリットと考えるべきなのかもしれない.




2002年1月某日

New England Patriots が Super Bowl に出場することになった.私はアメリカン・フットボールにはあまり興味がないのだが,かつてボストンに在住したものにとって,かつてのお荷物チーム,ボストンのプロ・スポーツの中で唯一黄金時代のないPatriotsのSuper Bowl進出は感無量であろう.

そもそも今シーズンは出だしが負けが込み,私が10月の終わりにネットで成績を見たときには3勝4敗だったので,私もその存在さえも忘れていたのだが,終わって見れば11勝5敗でDivisionで優勝していた.

しかも,準々決勝は大雪の中で,残り1分をきってから追いついて延長で逆転,順決勝では,チームの要のクオーターバックで,シーズン中から先発しつづけてきたTom Bradyが負傷退場,そのあと急遽でてきたDrew Bledsoe がまずまずの活躍を見せて勝利した.もっともBledsoeの年俸は10億円を超えるそうだから,このくらいはやって当然なのかもしれないが.

さらにすごいのは私がこれら2つのゲームをテレビで見たこと.番組表を確認したわけではなく,たまたまケーブルのスポーツチャンネルでやっているのを見たのである.だいたい,それを見るまでPatriotsがプレーオフに残っている事すら知らなかった.

これだけのことが重なれば,私がにわかフットボールファンになり,Patriotsを応援し始めるのも無理はないと,賢明な読者は察してくれるであろう.

もっとも、PatriotsのSuper Bowl進出はこれが初めてではない.1982年には奇跡的に勝ち上がったが46-10でChicago Bearsに大敗,1996年のシーズンにはBledsoeを擁したつ良いチーム(らしい)が,35-21でGreen Bay Packersに負けている.

ところでSuper Bowlのテレビ中継は何時からなのだろうか?

追記: 2月4日,Super Bowlで New England が勝ちました !最後のプレイで劇的なフィールドゴールがきまったらしい.以下,NFL.comより:

(:07) A.Vinatieri 48 yard field goal is GOOD Center-L.Paxton Holder-K.Walter.

明日の晩,テレビで見ることにしよう.実況だと長ったらしいけど,ケーブルで見る録画だと1時間半くらいで見られるし.




2002年1月某日

暮れに風邪をこじらせ,やっと回復して食欲が出てきたとき,「ほうとう」を食べた.「ほうとう」にはかぼちゃを入れるのが本式らしい.煮込むとかぼちゃはしだいに溶けて甘みをミソ味のスープに出すのだ,これがともすれば無骨な見栄えの「ほうとう」に良く合う.

余ったスープがもったいないので,雑炊を作ることを思いついた.ご飯を入れて味見をすると,今度は少し間が抜けている.ご飯では淡白すぎてかぼちゃの味に対抗しきれないのであろうか.それで,香港で買った豆バンジャンをいれてみるとなかなかいける.辛味が加わることで,かぼちゃの甘味が上品になるようだ.

それで,ひらめいた.かぼちゃをカレーにすればうまいに違いない.そこで,これまた香港で仕入れてきたMadras カレーのもとをベースに,どこかでもらってきた19種のスパイスのセットを私の研ぎ澄まされた魔術的な感覚で調合し,これでかぼちゃのカレーをつくってみた.主材料はかぼちゃとにんじんとたまねぎ.これが大晦日.味見をすると,少し甘く,しかもスパイスの味が浮いている感じ.

さて,元日は里帰りで家で食事をする事がなかったので,この特製かぼちゃカレーは2日に我が家の新年会にやってきたゲストに,いきなり出すことになった.2日寝かせておいたので,味はかなり慣れてきていて,悪くないできだと思ったのだが,ゲストの面々のお口にはあまりあわなかった様子.残ったのを2日くらいおいてまた食べて見たが,さらにおいしくなっていた.

また機会があればつくって食べさせる事にしよう.




2002年1月某日

こんな夢を見た.

原稿を書いていると,コンピュータの画面に「お知らせ」がでてくる.クリックすると,「原稿はかけましたか」とどこかで見たことがあるような女性がにっこりと微笑む.今書いているところなんですよ,とこたえると,すうっと消えてしまうのだが,数分するとまたでてきて「原稿は書けましたか」という.

ちょっと,悪くない気分だったが,かつてのクラスメートのG氏がでてきて曰く,「それはウイルスだよ.変なメールを開いたんじゃないか.」

いやそんな覚えはないんだが,と返事をしている間に,画面の方の女の子はいつのまにか3人に増えていて「原稿はかけましたか」と声をそろえる.クリックして消すしていくと次から次へとウインドウが開いて行く.気がつくとスクリーンも巨大になっていて,そこらじゅうがウインドウだらけになっている.

ああ,何とかしなくちゃ,と思ったら目がさめた.



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